世界遺産に登録されている富岡製糸場には、上信電鉄の上州富岡駅から歩きで着きます。
建物は明治時代に使われていたものが現存しており、その歴史的価値は非常に高いです。
明治維新を迎えて財政、法律、軍隊などさまざまな分野で近代的な西洋諸国に追いつこうとしていた日本ですが、産業を近代化させることも急務でした。
これまでのように手作業ではなく、器械による大量生産を実現させなければなりませんでした。
その成果がこの富岡製糸場であり、当時世界最大規模の製糸工場だったここで作られた生糸は、海外で高い評価を得ました。
実際に中で操糸器が奥まで隙間なく並んである光景を見れますが、その規模の大きさを体感できます。
他にも当時の労働者の様子が分かる資料なども多く展示されており、資料館としての楽しみ方もできる場所です。
高崎市には、縁起だるま発祥の寺として有名な「少林山達磨寺」があります。
群馬八幡駅から徒歩か、あるいは高崎駅からバスで20分で着きます。
江戸時代に九代目東獄和尚が農民の副業として推奨したのが、だるま作りの始まりだそうです。
写真だけでも大量のだるまが置かれているのが分かるかと思います。
しかしそれでもごく一部に過ぎず、達磨堂の中では古今東西のあらゆる種類のだるまを見ることができます。
境内には日本文化に造詣の深かった世界的建築家ブルーノ・タウトが暮らしていた洗心亭が残されています。
高崎にはかつて明治維新に貢献した幕臣、小栗上野介忠順という人物の終焉の地と墓があります。
幕臣で明治維新に貢献したというと違和感があると思いますが、彼は勝海舟と並び幕臣でありながら日本を近代化へと進めた人物として評価されています。
しかし勝海舟が早くに幕府を見限っていたのに対し、先祖代々徳川家の恩を受けてきた小栗はあくまで徳川家を中心とした近代化を目指しました。
そこに彼の悲劇があったといえます。
小栗は戊辰戦争で徳川方が不利になった状態でも、新政府軍を破る策を考え徹底抗戦を訴えました。
しかし恭順を決め込んでいた徳川慶喜の意思と、薩長側と繋がりのあった勝海舟の交渉もあり徳川家は降伏するかたちとなりました。
ちなみに後に小栗の策を知った新政府軍の指導者が、「小栗の案が通っていたら薩長が負けていた」と言ったそうです。
そして小栗も徹底抗戦を諦め、自身は高崎の権田村でひっそりと暮らそうと考えていましたが、薩長側は反逆を企てているとして彼を捕らえこの地で首をはねました。
薩長からすればこれほどの才能を持った男が生き残っているのは恐怖でした。
また彼があまり知られていないのも、その後の歴史教育でその名が伏せられてきたからです。
薩長からすれば、旧体制であったはずの幕府側に明治維新に大きく貢献した人物がいたというのは不都合な真実でした。
彼の墓はその終焉の地の近くにあります。
「東善寺」というお寺で、高崎駅から50分ほどバスに乗らないといけません。
司馬遼太郎は小栗のことを「明治の父」とまで称しました。
また彼が横須賀に造船所を作り、それが明治後も引き継がれたことから、日露戦争で日本海軍を指揮した薩摩の東郷平八郎が「日本海海戦でロシアに勝てたのは小栗のおかげ」と言ったそうです。
他にも彼は西洋式軍隊の整備、欧米諸国との対等な交渉、日本初の株式会社の設立、後の廃藩置県に繋がる郡県制を構想するなど、時代を先取りした功績を残しました。
大隈重信は、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」とまで述べています。
東善寺では彼の生涯や功績が詳しく紹介されています。
またそこの展示に書かれてある文章からは、「なぜ大人しく隠居しようとしていた彼は、無実の罪で薩長に殺されなければならなかったのか」という理不尽への憤りが感じられます。
革命とは必ずしも新勢力が正しく、旧勢力が悪であるとは限らないし、そんな単純なものではないということが分かります。
それとともに小栗のような先見の明を持った人物が、滅ぼされる側の徳川恩顧の家系に生まれたというところに、運命の皮肉を感じずにいられません。