鹿児島市内は路面電車が通っているため、市内の観光では活用することができます。
鹿児島といえば桜島が有名で、鹿児島駅側からも十分その姿を拝めますが、近くまで行ってみたいと思えばフェリーで渡ることができます。
島内には海岸をぐるりと囲むように遊歩道が整備されていて、いろんな角度から火山を見ることができるようになっています。
また島内には展望台もあります。
歩きで楽しむのもいいですし、島内のバスを使うということもできます。
歩いている途中に火山から黒煙が湧き出てきて、噴火の前触れではないかと少し不安になりました。
地学系の知識がまったくないのでそんな勘違いをしていましたが、これも普段から見れる光景なようです。
その存在感たるや鹿児島のシンボルというにふさわしいものですが、煙を吹くと鬼に金棒という具合にさらにその力強さが増します。
幕末の薩摩藩は様々な人材を輩出し、明治維新をリードしました。
大久保利通、西郷従道、東郷平八郎、そして西郷隆盛といった英傑たちの生誕地や屋敷跡が市内に残されています。
薩摩藩には「郷中教育」という独自の教育システムがおり、それが優秀な人材の育成につながったといわれています。
鹿児島城下では各町で郷中という少年のグループが作られ、年長の先輩が後輩に教育するというシステムがとられていました。
これにより藩校に通わない下級武士でも教育を受けることができ、さらに誰に学ぶかも自分で選ぶことができるという比較的自由な教育方法でした。
教育も藩校によるテキスト重視のものとは違って議論を重視したもので、自分の価値観を培うことができて柔軟な発想、行動ができる人材が育っていきました。
また郷中の者同士の絆は深くなり、団結性が生まれます。
このような教育制度があったからこそ、下級武士の中から西郷や大久保といった英雄が生まれていったのです。
彼は倒幕という偉業を果たしながらも明治政府の腐敗ぶりに嫌気がさし、故郷に戻って悠々自適に暮らしていました。
しかし不平士族に担がれるかたちで西南戦争を起こすことになり、この地で最期を遂げます。
西南戦争の際に西郷が籠もったという洞窟まで残されていました。
市内には他にも西郷の像があったり、さらに南洲公園には西郷の墓のある南洲神社および「西郷南洲顕彰館」という博物館があります。
西郷隆盛に関する評価は近年変わってきているようです。
冷徹ながらも近代国家を築こうとした大久保とは対象的に、士族のために征韓論を唱え、新国家の青写真を持っていないために時代の変革についていけず反乱を起こしたというのが従来のイメージでした。
しかし西郷はそもそも征韓論というものは唱えておらず、朝鮮に自分を派遣して日本と友好関係を築こうと考えていたのが事実だといわれています。
また彼は大久保らが岩倉使節団として日本を留守にしている間にさまざまな改革を実行しています。
国立銀行条例の制定、学制の発布、鉄道開業、徴兵令や地租改正条例の布告、太陰暦から太陽暦への変更、職業選択・信教の自由の許可、人身売買の禁止などがそうです。
日本が近代国家、民主主義国家に生まれ変わるうえで必要となる改革は、多くは西郷による留守政府が実行したものでした。
西郷がその後失脚したのは征韓論論争に破れたからではなく、大久保側による追い落としの工作と、そのやり方に絶望した西郷の意思が原因でした。
西郷が平和、民主主義を志向していたというと違和感があるかもしれませんが、そういう面があったことをもっと知られていいのではないでしょうか。
そんな彼も鹿児島の不平士族の動きに巻き込まれて、それを放っておけずに自分が指揮することになり戦死を遂げます。
その点はこれまでいわれてきた通りですが、いずれにせよ自分よりも他人を優先せずにはいられない大器の人物であったことだけは間違いないようです。