上杉鷹山は、江戸時代に財政破綻の危機にあった米沢藩を藩主として立て直した人物です。
「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」という彼の言葉は有名かと思います。
彼は反発にあいながらも古い慣習を撤廃しつつ大倹約を実施し、さらに産業を興すなどして不可能と思われた米沢藩の復興を成し遂げました。
上杉鷹山は、経営者が尊敬する歴史上の人物のランキングでもトップに輝いています。
ケネディ大統領が来日した際に、「尊敬する日本人は?」と聞かれて彼の名を挙げたというのも有名です。
先例にとらわれない柔軟力、家臣や民衆相手に対しても驕り高ぶらない謙虚さ、常に絶望せずに最善の解決策を考えて行動に移す実行力など、リーダーに求められるあらゆる素質を備えた人物だといえます。
そんな上杉鷹山ゆかりの地をめぐるのが、米沢に来た目的です。
まず上杉鷹山をはじめ、歴代の上杉家ゆかりの人物たちを祀っている上杉神社と松岬神社へと向かいました。
松岬神社は明治になって鷹山を分祀して建てられたもので、2つの神社は隣接しています。
ここには、鷹山が詠んだ「受け継ぎて 国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母」という句碑があります。
他にも、鷹山が隠居する際に藩主となる息子に送った「伝国の辞」の碑もあります。
「国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候」
「人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候」
「国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候」
という三か条です。
士農工商がはっきりしていた江戸時代にあって、藩主は偉いわけではなくその役割は民衆の生活をよくすることだという、民主主義的な思想を持っていたことが分かります。
それだけでも、彼は奇跡的な存在だといえます。
江戸時代260年の中で、こんな思想を持っていた藩主は彼一人だけでしょう。
鷹山は武士に鍬を持たせて農作業をさせましたが、当時からすれば型破りな発想であり反対の声もありました。
しかし常識や身分制度にとらわれなかったからこそ、そのような判断ができたのでしょう。
当時の米沢藩でこんなエピソードがあります。
ある老婆が通りすがりの武士に農作業を手伝ってもらい、お礼に餅を届けたいと言うと、その武士から米沢城の北門に来るようにと言われたそうです。
指示通り老婆が餅を持っていくと、通された先にいたのは殿様である鷹山でした。
通りすがりに農作業を手伝った武士は、鷹山その人だったのです。
またここでは上杉謙信やその跡を継いだ上杉景勝、その重臣であった直江兼続などが祀ってあります。
直江兼続については「天地人」という大河ドラマで有名になりましたが、彼は信長、秀吉、家康の治世下にあって上杉家を守り抜いた名宰相です。
そんな彼の屋敷跡も近くにありました。
もともと越後(新潟県)を治めていた上杉家ですが、豊臣秀吉の命で会津へと移され、その後関ヶ原の敗戦によって米沢に減封されました。
しかし上杉謙信に始まる義を重んじるというその家風は、鷹山の時代まで引き継がれていったのです。
次に細井平洲の逗留邸跡、そして鷹山が隠居後に暮らした餐霞館遺跡に向かいました。
細井平洲とは上杉鷹山の師であり、彼に藩主としてのあり方を教えた人物です。
他にも白子神社、文殊堂と聖堂、法泉寺庭園、上杉家墓所といった、鷹山関連の地を回りました。
白子神社では、鷹山が倹約や財政改革を誓って誓詞を納めていて、彼の決意のほどがうかがえます。
上杉家墓所は上杉家の歴代藩主の墓が並んであり、当然鷹山のものもあったため手を合わせました。
最後に鷹山自ら鍬をもって田を耕し、農耕の大切さを説いたという籍田の碑を見に行きました。
訪れた場所はすべて米沢駅から歩いて回りました。
少し疲れますが、歩けない距離ではありません。
米沢を出る際に電車の車窓から街並みを眺めると、かすかに雪の残る田園風景が果てしなく広がっていました。
その美しさに息を呑まれるとともに、このような街を築き上げた上杉鷹山という人物に思いを馳せずにはいられませんでした。
人の生き方はさまざまで自分の地位や権力、財産のために生きる人もいれば、誰か他人のために生きる人もいます。
前者は後の世に何も残すことはありませんが、後者は300年先の世にも自分の足跡を残すことになるかもしれないのだとしみじみ思いました。
鷹山の生き様と、目の前の田園風景の綺麗さが自分の中でマッチして、そんなことを考えさせられました。