日本三大仏の1つである高岡大仏は、JR高岡駅から少し北へ歩くと着く「大佛寺」でその姿を拝めます。
最初に建てられたのは800年ほど前ですが、その後荒廃や焼失の危機がありながらも何度も再建を繰り返し今に至ります。
この大仏をはじめとして高岡には、「高岡銅器」とよばれる伝統工芸品があります。
その始まりは、1611年に藩主前田利長が7人の鋳物師を高岡に呼び寄せたことがきっかけで、今では全国に知られる伝統産業となっています。
それに関しては、高岡古城公園内にある「高岡市立博物館」で詳しく学ぶことができます。
高岡大仏から歩いてすぐのところにあります。
高岡古城公園には「高岡城跡」の石碑と石垣に使われた石、さらには加賀藩二代目藩主前田利長と高山右近の像があります。
前田利長は加賀藩主の座を弟の利常に譲ってから隠居の身として富山城に移り、それから高岡に移って高岡城を築城してまちづくりに励みました。
その時に築城を指導したのが、キリシタン大名としても知られる高山右近です。
しかし幕府の一国一城令によって、高岡城は築城後わずか6年で廃城となりました。
それでも三代藩主の利常が町人を保護する政策をとったことで高岡の繁栄は続き、加賀百万石といわれた前田領の経済の中心地として発展しました。
高岡をはじめ北陸の地域には伝統産業が多く残っていますが、藩主であった前田家が産業への理解が深く、それを保護する政策をとってきたことが大きな原因の1つです。
そんな前田利長の菩提寺として利常が建立したのが、国宝瑞龍寺です。
ここも高岡駅から徒歩圏内にあります。
途中向かう参道で前田利長の像が迎えてくれます。
お寺の方がおっしゃるには、前田家といえば一般的に初代藩主の前田利家が知られていますが、利長はそれに勝るとも劣らないくらいに偉い人物だとのことです。
利家は織田、豊臣政権下でさまざまな戦を勝ち抜き実力を認められ、彼が長生きすれば徳川家康の天下はなかったかもしれないとまでいわれます。
それに対して利長は、利家の死後すぐに家康に頭を下げることで所領を守り抜き、その後領内の産業、文化の発展に努めました。
価値観にもよりますが、戦の世で天下に名乗りを上げた利家よりも、戦をせずに政治によって街を発展させた利長を評価したいとその方はおっしゃっていました。
大名個人の墓としては最大級の規模だそうです。
場所は変わって海沿いのJR伏木駅で降りるといろいろな時代の史跡を巡ることができます。
まず歩きで「高岡市万葉歴史館」に向かいました。
そしてこの地の風土を詠んだ和歌も多く残しています。
伏木港は古くから良港として知られ、江戸時代には北前船の交易により街ごと栄えました。
資料館では生活用具などが展示されており、また中の方が詳しく説明してくださいます。
勝興寺は、江戸時代の木造建築がそのまま残されていることから国宝に指定されています。
また境内地は奈良時代に越中国府の所在地であったとされており、万葉集を編纂した大伴家持が5年間この地に赴任していました。
最後に北陸随一の絶景を見るためにJR雨晴駅で下車しました。
ここ雨晴海岸からは海を挟んで標高3000メートル級の立山連峰を望むことができ、世界的に見てもそのような景色は稀だそうです。
線路越しに見るもよし、陸側の道の駅雨晴の屋上から見るもよしです。
その名前の由来は、兄頼朝から逃亡していた源義経がここの岩で雨が止むのを待っていたからだそうです。
その時の岩が残されています。
最初は雲がかかっていて立山連峰がぼんやりとしか見えませんでしたが、粘り強く待っているとやがてその姿をはっきりと現しました。
壮大な海と山が1つの風景の中に溶け込む様は、大伴家持の時代から多くの人々を魅了し続けてきただけの美しさがありました。