【熊本県 熊本】 熊本城 水前寺成趣園 夏目漱石旧居

熊本駅から市内を走る路面電車かバスを使うと、熊本城まで30分もかからずに着くことができます。

 

熊本城は地震で崩れて一時立入禁止となっていましたが、今では天守閣をはじめほとんどの部分が復旧しています。

地震により石垣の一部が崩れましたが、その見事なまでの曲線美は当時のままに見ることができます。

 

また石垣は何度も折れ重なって天守閣まで続いています。

反り返しのある石垣や軍勢を進めにくい道など、難攻不落の城といわれる所以が分かります。

 

熊本城は豊臣秀吉の命でこの地を治めることになった加藤清正によって建てられました。

彼は攻めにくい城を築くとともに、戦乱で荒廃した肥後(今の熊本)を立て直すために善政を敷きました。

豪将としてのイメージが強い加藤清正ですが、このような智将、名君としての顔も持っていたのです。

 

今でも「清正公(せいしょこ)さん」として熊本で慕われている清正は、城内にある「加藤神社」で祀られています。


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水前寺成趣園」は江戸時代に肥後藩主となった細川氏によって築かれた名園です。

ここにある「出水神社」では戦国期に細川氏を発展させた藤孝、忠興親子にはじまり歴代藩主が祀られています。

大正時代にに京都御所内から移築された「古今伝授の間」は、細川藤孝(幽斎)が智仁親王古今和歌集の奥義を伝授された建物といわれています。

 

かつて足利将軍家のもとでの実力者であった藤孝は、教養や文化に秀でた人物でした。

水前寺成趣園はその系譜を継いでいる細川氏だからこそ築くことのできた傑作であるといえるかもしれません。


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近くには高校教師として活躍していた若き日の夏目漱石の旧居がありました。


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【山梨県 甲府】 昇仙峡

その渓谷美から人気の観光地となっている「昇仙峡」には、甲府駅からバスで30分ほどで着きます。

 

昇仙峡は国産水晶発祥の地としても知られています。

また山梨は日本ワイン発祥の地であり、その試飲ができるスペースもあります。

息を呑むほどの渓谷美とともに、そのような地場産業の魅力も味わえるスポットです。

 

巨岩奇岩の立ち並ぶ遊歩道を川沿いに進むと、両側に天高くそびえ立つ峰が見えてきます。

主峰である「覚円峰」は澤庵禅師の弟子僧侶覚円が、畳が数畳敷ける広さの頂上で修行したことに由来します。


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石門はいくつかの岩が連なりながら人が通れる門を築いています。

そのきれいな構造から人工のように思えますが、自然が作り出したものであり神秘的な芸術性を感じます。


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石門をくぐってさらに歩くと「仙娥滝」といわれる落差約30メートルの滝が現れます。


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「クリスタルファウンテン」は、かつて甲府駅前にあった噴水をモデルにして作られたものです。

その噴水は水晶と宝石の街である甲府のシンボルとしての役割を果たしていました。

そのため噴水の頂の水晶は全て天然のものを使用しています。


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ロープウェイを使って上に登ると、昇仙峡の全貌を見渡すことができます。

さらに景色だけでなく、一直線に富士山に向かっていることからパワースポットとされている「和合権現」に手を合わせることもできます。


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ロープウェイを降りるとその近くには、ワインの試飲や購入ができる「山梨ワイン王国」や、水晶による美術館といってもいい「水晶宝石博物館」があります。

水晶により再現された上杉謙信武田信玄の一騎打ちは綺麗さとともに凄みが感じられます。


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また昇仙峡内には、世界初の影絵美術館である「影絵の森美術館」もあります。


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【岡山県 井原】 北条早雲 中世夢が原

岡山と広島の県境に位置する井原市は、戦国大名北条早雲の出身地といわれています。

 

そもそも早雲自身は北条を名乗ってはおらず、北条を名乗り始めたのは彼の息子氏綱の代からです。

早雲は本名を伊勢新九郎盛時といい、この地の名門伊勢氏の出身でした。

一介の浪人から大名まで上り詰めた下剋上の代表として語られてきた彼ですが、近年の研究でもともと名門の出身であったことが明らかになっています。

 

33歳までをこの地で過ごし、その後京都で足利将軍家駿河静岡県)で今川家に仕え、やがて自らが大名となり関東に覇を唱えました。

井原では、あまり知られていない若い頃の早雲の足跡を辿ることができます。

 

井原鉄道早雲の里荏原駅で降りると、彼ゆかりの地を回ることができます。

駅前には、老将となってからの彼の像が置かれています。


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法泉寺は早雲が幼少期に学問を修めた場所で、境内には彼と父の盛定の墓が並んでいます。


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その近くには、伊勢氏の家臣が早雲の二百回忌に岩に刻んだという「大岩刻早雲供養碑」があります。


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高越城跡は伊勢氏の居城であり早雲の生まれた城でもあります。

山上まで少し上がると、のどかな井原の景色とともに早雲生誕の地の石碑を見ることができます。


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「新九郎薬師」には、早雲が井原に一時戻った際に祀ったと伝わる木像の薬師如来像が残されています。


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北条早雲は謎の多い人物であり、井原の伊勢氏の出身であることも最近の研究で明らかになりました。

特に歴史の表舞台に立っていなかった前半生は分かっていないことが多く、井原での日々がどのようなものであったのかはあまり分かっていません。

とはいえこの地を歩くと、早雲がたしかにここで暮らして成長した証となるものにいくつか巡り会えました。

 

そこから山の方に北上していくと、「中世夢が原」があります。

ここでは鎌倉から室町時代にかけてのこの辺りの村の様子が歴史考証に基づいて再現されています。

多くのドラマや映画で撮影地として使われてきたそうです。


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ここでは当時の農民、商人、武士の暮らしの跡がまるで本物が残っているかのように再現されています。

本当にこの時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ります。

視覚的に歴史を学ぶのであれば、ここほどいい場所はありません。

 

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【鳥取県 境港】 水木しげるロード

鳥取と島根の境目に位置し海に面する境港の街は、漫画家水木しげるの出身地として知られています。

そのためJR境港駅からすぐのところに「水木しげる記念館」や、「ゲゲゲの鬼太郎」の妖怪たちが通りを埋め尽くす「水木しげるロード」があります。

 

またそこから少し南に行くと「境港さかなセンター」があり、日本海の新鮮な魚を味わえます。

そこでは目の前に日本海が開けており、潮風を浴びることができます。


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もともとシャッター通りだった商店街を活性化させる目的で作られた「水木しげるロード」は、今や市民にも観光客にも愛されるスポットとなっています。

街のアイデンティティを見事に活かした地域活性化の成功例といえます。


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【和歌山県 和歌山 九度山町 高野町】 和歌山城 真田庵 高野山  

和歌山城跡には、JR和歌山市駅から歩いてすぐ着きます。

和歌山城を最初に築いたのは、豊臣秀吉の弟の秀長です。

その後廃藩置県まで城としての役割を果たしました。

 

江戸初期の大名庭園である「西之丸庭園」は、内堀の上を木造の廊下が繋いで情緒あふれる景色となっています。

また公園の敷地内にある「わかやま歴史館」では、和歌山城の歴史や和歌山ゆかりの人物について学ぶことができます。


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高野山へ向かうには、JRから南海高野線に乗り換えて極楽橋駅まで行かなければなりません。

その途中九度山駅で降りると、真田昌幸とその息子幸村ゆかりの地を巡ることができます。

 

昌幸と幸村の親子は関ヶ原の戦い石田三成側についたことで徳川家康の処罰を受けることとなり、この九度山の地で蟄居を命じられます。

そして昌幸はこの地で病死しますが、幸村は大坂冬の陣が起きると九度山から脱出して大坂城に入城して、再び家康に立ち向かうこととなります。

その時に幸村が大坂に向かうために使ったとされる抜け穴が残されていました。


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善名称院」(真田庵)は2人が蟄居し、昌幸が亡くなった場所です。

そのすぐ近くには「九度山・真田ミュージアム」があります。

 

小国の領主ながらその並外れた頭脳で大名たちを翻弄した昌幸は、これまで徳川軍を二度も打ち破っていました。

しかし再び家康に戦いを挑むことなくこの世を去ることになります。

そしてその無念は息子の幸村に受け継がれ、彼は大阪夏の陣で家康を自害の寸前まで追い詰めました。

 

真田昌幸、幸村親子ほど家康を苦しめた武将はいなかったでしょう。

小国の領主である真田一族が、天下人徳川家康に挑み翻弄した物語は痛快であり、今でも日本人に愛されています。


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極楽橋駅からケーブルカーに乗ると、高野山の山上にたどり着きます。


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「奥之院」と呼ばれるエリアには数々の大名や武将をはじめとした墓が並び、その参道は2キロにも及びます。

樹齢数百年の杉木立が並ぶ中で織田信長上杉謙信といった人々の墓を拝むことができる、日本でもここしかない聖地です。

「日本の総菩提寺」とも呼ばれているそうです。

 

その最後に「御廟橋」があって、その先では空海が入定されているとされます。

ここから先は聖域であるため橋の前で服装を正し、礼拝してから渡るのが参拝の作法です。

また写真撮影も禁止となります。

 

橋を渡った先にある「弘法大師御廟」では、今でも空海が肉体をとどめているという信仰があります。

日本の歴史上、弘法大師空海ほど多くの伝承を残して人々の信仰を集めている人物はいないでしょう。

それは日本全国に空海ゆかりの地があることから分かりますが、この御廟はその最たるものといえます。


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他にも世界遺産である金剛峯寺、根本大塔があります。

まるで山の上に一つの街があるかのようなスケールです。

空海がこの地から自分の密教の思想を体現して広めようとしていたことが分かります。


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【徳島県 三好】 大歩危小歩危

見事な渓谷美で知られる「大歩危小歩危」ですが、JR大歩危駅からすぐの「道の駅大歩危」からその片鱗を見ることができます。

エメラルドグリーンの川が大きな岩の間をくぐりながら、山々の方へ向かって流れ込んでいます。


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そこから少し東に行くと「平家屋敷民俗資料館」があります。

この地には平家の落人伝説があり、この屋敷では平家の滅亡後にその残党が暮らしたといわれています。

中にはゆかりの品が残されていました。


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さらに山の奥へ進んでいくと、渓谷の全貌を見渡せるようになります。

「ひの字渓谷展望所」、「祖谷渓の小便小僧」といったいくつかの展望台があります。

そこでは連なる巨大な山々が、深い谷を作りながらいつまでも続いているのが一望できました。


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昼食はその山々で採れた山菜を使ったうどん、この辺りの川の鮎をいただきました。


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少し南に下ると、国の重要有形民俗文化財である「祖谷のかずら橋」を渡ることができます。

木材と縄状の葛で作られたこの橋は、近代まで外部との関わりが絶たれていたこの地だからこそ残る、中世の生活様式や独特の風俗を象徴するものです。

 

自然のものをそのまま使って作られたかずら橋は、清らかに流れる川と周りの木々といった大自然と見事に調和しています。

歩いて渡ることができますが、高所恐怖症であれば少し覚悟が必要です。


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そこから歩いてすぐのところに「琵琶の滝」があります。

平家の落人たちが、在りし日の都での日々を偲びながらこの滝の下で琵琶を弾いていたという伝説からその名前がついたそうです。


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それから東の方へ向かうと「東祖谷落合集落」といわれる、保存地区に指定されている山村集落を見渡せるスポットがあります。

ここでは江戸時代からの生活環境がそのまま残されています。


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大歩危小歩危」はその大自然だけでなく、かつて栄華を極めた平家の落人たちの無念さを感じることもできる歴史の深い地域です。

 

 

【京都府 亀岡 福知山】 明智光秀

織田信長の命により丹波攻略を命じられた明智光秀が築城して拠点としたのが亀山城です。

その跡は今は公園として整備されています。

 

2020年に大河ドラマ麒麟がくる」で明智光秀が主役に選ばれた際に、公園内に彼の像が建立されました。

光秀は多くの国人衆に分かれていた丹波を統一し、その中心として亀山城の城下町を整備しました。


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やがて丹波を平定した光秀は、福知山(当時は福智山)に城を築いて拠点を移しました。

光秀は丹波を拠点とすることで信長のいる近畿地方で兵を動かすことができ、それほど信長から信頼されていたことが分かります。

しかし皮肉にもその信頼が、光秀に本能寺の変を起こす機会を与えることになります。

 

裏切り者として歴史に悪名を残す光秀ですが、領民に対して善政を敷いたことでも知られています。

彼が治水工事のために築いた堤防は「明智藪」と呼ばれて今も福知山に残っています。

 

現在は博物館となっている福知山城の天守閣では、光秀時代の福知山について学ぶことができます。

またそこから少し歩くと、光秀を祀る「御霊神社」があります。


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明智光秀ほどその評価が分かれる武将は珍しいでしょう。

主君の信長を討った謀反人であるかと思えば、福知山では丹波に統一をもたらし民衆のための政治を行った人物として崇められています。

 

多角的な見方をしないと歴史とは分からないものです。