【富山県 高岡】 高岡大仏 高岡古城公園 瑞龍寺 伏木 雨晴海岸

日本三大仏の1つである高岡大仏は、JR高岡駅から少し北へ歩くと着く「大佛寺」でその姿を拝めます。

最初に建てられたのは800年ほど前ですが、その後荒廃や焼失の危機がありながらも何度も再建を繰り返し今に至ります。

 

この大仏をはじめとして高岡には、「高岡銅器」とよばれる伝統工芸品があります。

その始まりは、1611年に藩主前田利長が7人の鋳物師を高岡に呼び寄せたことがきっかけで、今では全国に知られる伝統産業となっています。

 

それに関しては、高岡古城公園内にある「高岡市立博物館」で詳しく学ぶことができます。

高岡大仏から歩いてすぐのところにあります。


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高岡古城公園には「高岡城跡」の石碑と石垣に使われた石、さらには加賀藩二代目藩主前田利長高山右近の像があります。

 

前田利長加賀藩主の座を弟の利常に譲ってから隠居の身として富山城に移り、それから高岡に移って高岡城を築城してまちづくりに励みました。

その時に築城を指導したのが、キリシタン大名としても知られる高山右近です。

 

しかし幕府の一国一城令によって、高岡城は築城後わずか6年で廃城となりました。

それでも三代藩主の利常が町人を保護する政策をとったことで高岡の繁栄は続き、加賀百万石といわれた前田領の経済の中心地として発展しました。

 

高岡をはじめ北陸の地域には伝統産業が多く残っていますが、藩主であった前田家が産業への理解が深く、それを保護する政策をとってきたことが大きな原因の1つです。


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そんな前田利長菩提寺として利常が建立したのが、国宝瑞龍寺です。

ここも高岡駅から徒歩圏内にあります。

 

途中向かう参道で前田利長の像が迎えてくれます。


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瑞龍寺の禅堂は広く、重要文化財にも指定されています。

 

お寺の方がおっしゃるには、前田家といえば一般的に初代藩主の前田利家が知られていますが、利長はそれに勝るとも劣らないくらいに偉い人物だとのことです。

利家は織田、豊臣政権下でさまざまな戦を勝ち抜き実力を認められ、彼が長生きすれば徳川家康の天下はなかったかもしれないとまでいわれます。

それに対して利長は、利家の死後すぐに家康に頭を下げることで所領を守り抜き、その後領内の産業、文化の発展に努めました。

 

価値観にもよりますが、戦の世で天下に名乗りを上げた利家よりも、戦をせずに政治によって街を発展させた利長を評価したいとその方はおっしゃっていました。


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瑞龍寺から東へと少し歩けば、前田利長墓所があります。

大名個人の墓としては最大級の規模だそうです。


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場所は変わって海沿いのJR伏木駅で降りるといろいろな時代の史跡を巡ることができます。

まず歩きで「高岡市万葉歴史館」に向かいました。

 

万葉集を編纂した大伴家持は、この辺りの国守でした。

そしてこの地の風土を詠んだ和歌も多く残しています。


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次に「高岡市伏木北前船資料館」です。

伏木港は古くから良港として知られ、江戸時代には北前船の交易により街ごと栄えました。

 

資料館では生活用具などが展示されており、また中の方が詳しく説明してくださいます。


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勝興寺は、江戸時代の木造建築がそのまま残されていることから国宝に指定されています。

また境内地は奈良時代越中国府の所在地であったとされており、万葉集を編纂した大伴家持が5年間この地に赴任していました。


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最後に北陸随一の絶景を見るためにJR雨晴駅で下車しました。

ここ雨晴海岸からは海を挟んで標高3000メートル級の立山連峰を望むことができ、世界的に見てもそのような景色は稀だそうです。

線路越しに見るもよし、陸側の道の駅雨晴の屋上から見るもよしです。


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その名前の由来は、兄頼朝から逃亡していた源義経がここの岩で雨が止むのを待っていたからだそうです。

その時の岩が残されています。


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最初は雲がかかっていて立山連峰がぼんやりとしか見えませんでしたが、粘り強く待っているとやがてその姿をはっきりと現しました。

 

壮大な海と山が1つの風景の中に溶け込む様は、大伴家持の時代から多くの人々を魅了し続けてきただけの美しさがありました。


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【埼玉県 深谷】 渋沢栄一

新一万円札の顔に選ばれ、大河ドラマでも話題となった渋沢栄一の出身地は、現在の埼玉県深谷市の血洗島です。

 

彼は後に日本に資本主義を起こし、500の会社設立と600の公共事業に携わりました。

また晩年は民間外交を展開し、日中、日米関係の改善に努めてノーベル平和賞の候補にもなっています。

 

渋沢は商人が馬鹿にされその地位が低い時代にあって、その地位を向上させました。

それとともに商売はお金儲けのためだけでなく、社会や他人のために行われなければならないという「道徳経済合一説」を唱えました。

 

彼の故郷である深谷を歩くと、後の彼の活躍や思想の萌芽となったものが感じられます。

 

僕が別のブログで渋沢栄一について書いたものがあるので、それとセットで読んでいただけたら嬉しいです。

 

https://dtred.hatenablog.com/entry/2024/01/28/021800

 

https://dtred.hatenablog.com/entry/2024/01/28/022616


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青年時代の栄一が教養を身につけられたのは、従兄であり師でもあった尾高惇忠の教育のおかげでした。

尾高の教育により栄一は日本の変革への意識を持ち始めました。

やがて尾高や栄一らは横浜の外国人居留地の焼き討ちを計画しますが、仲間の反対により未遂に終わります。

 

その焼き討ち計画が話し合われた場所でもある尾高惇忠の生家は、JR深谷駅からだとタクシーで15分くらいの場所にあります。


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その近くにある鹿島神社には、尾高惇忠を顕彰する碑もあります。

 

栄一が91歳で亡くなるまで、どんな事業でもあくまで他人や社会のためということにこだわったのは、根底に尾高から受けた教育があったと思われます。

とはいえ当時は居留地の焼き討ちという乱暴かつ無計画な手段で国家を変革しようとしましたが、そのようなやり方を反省するきっかけとなったのも、この時の失敗が大きかったことでしょう。


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栄一の生家跡及び記念館がある「青淵公園」に行くには、そこからさらに北に向かいます。

青淵とは栄一の雅号で、生家の裏側にある池にちなんで尾高惇忠がつけたものです。


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栄一の生家は藍玉の販売で生計を立てており、農家であるとともに商売も行っていました。

栄一自身も信州までその販売に出かけて経験を積み、後に発揮する商人としての才能をここで培いました。

 

後に彼は幕府の命でフランスに渡りそこで学んだ資本主義の仕組みを日本に根付かせますが、フランスでそれをすんなり理解できたのも、生家で得た商売の知識と経験があったからだと思われます。


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渋沢栄一記念館」では彼ゆかりの展示とともに、彼が生涯で成し遂げたことの数々を学ぶことができます。

成し遂げだことを1つずつ列挙していくときりがありませんが、91歳まで生きたとはいえ、1人の人間がここまでさまざまなことを成し遂げられるのかと驚嘆せざるを得ません。

 

明治維新に最も貢献したのは誰かというのはあまりにも難しい質問ですが、明治維新といっても旧体制の破壊の段階と新体制の創設の段階に分かれます。

その後者の方に限っていうならば、渋沢栄一こそそうだといってもいいかもしれません。

 

記念館には渋沢栄一がアンドロイドになって「道徳経済合一説」について説明してくれるユニークな内容もあります。

予約制だったと思いますが、これもおすすめです。


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青淵公園の近くには、栄一とゆかりの深い諏訪神社があります。


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深谷駅に向かって戻る途中に、栄一の喜寿を祝って建てられた「誠之堂」と「清風亭」に寄りました。

洋風の立派な建物です。


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人間は誰しも少なからず故郷の影響を受けて育ちますが、それは渋沢栄一にも同じことがいえます。

彼がこの地での学びを発展させた「道徳経済合一説」は、経済と社会の発展が両立しなくなってきた現代だからこそ注目されています。

人のためという理想を掲げながらも、お金を儲けるという現実も無視していない彼の思想は、これからの羅針盤としていくべきものではないでしょうか。

 

 

【京都府 京都】 北野天満宮 平野神社 仁和寺 龍安寺 妙心寺 二条城 神泉苑

京都市の中でも、JR嵯峨野線二条駅円町駅花園駅周辺の神社仏閣、お城を紹介します。

 

円町駅から北の方に上がると、有名な観光名所がいくつか集まっていています。

 

まず福岡の太宰府天満宮とともに、菅原道真を祀っていることで知られる「北野天満宮」です。

全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社であり、天神さまとして親しまれています。

 

境内には、道真が愛してやまなかった梅の花が多く咲いています。

彼が謀略によって京都を追われることになった際に詠んだ、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」という句はよく知られます。


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北野天満宮は梅だけでなく、紅葉の名所としても知られます。

豊臣秀吉が水防のために築いた土塁「御土居」の一部が残る境内の西側一帯は、約350本の紅葉を有する名所「もみじ苑」として史跡になっています。

ここは期間限定でのみ公開されます。

 

社殿や川に架かる橋を、燃えるような紅葉の赤がきれいに彩っています。


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北野天満宮から歩いて行ける「平野神社」は、桜の名所として知られます。

 

平野神社発祥の桜である魁桜は早咲きの品種であることから、この桜が咲き出すと都のお花見が始まるといわれているそうです。


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桜でいえば仁和寺の「御室桜」も有名です。

こちらは遅咲きの桜です。

 

江戸時代から庶民の桜として親しまれ、いくつかの和歌にも詠まれました。

江戸時代の儒学者貝原益軒は、吉野の桜に勝るとも劣らないとまで絶賛しています。


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特に満開の桜越しに見える五重塔は、仁和寺で花見をするならハイライトとなる絶景です。


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細川勝元によって建てられた龍安寺枯山水の石庭が特に有名で、世界文化遺産にも登録されています。

石庭は「方丈庭園」とよばれ、白砂の上に15の石を配しただけで静的に美が表現されています。


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境内には水戸黄門として知られる徳川光圀がした、「吾唯足知」の文字が入ったつくばいが残されています。

仏教の本質であり、茶道の精神の真髄でもある言葉です。


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花園駅近くの妙心寺も、その石庭で知られています。

龍安寺やここの石庭では、最小限のものを使って自然美を再現するという枯山水の極地を見ることができます。

 

また本能寺の変を起こした明智光秀がここで辞世の句を詠み、住職に自害を止めるよう説得されたという話も残るそうです。


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北区にある船岡山からは京都市内を見下ろすことができます。

またここには織田信長を祀った建勲神社があります。


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二条城は、徳川家康が京都の徳川家の拠点として築いた城であり、徳川慶喜による大政奉還が行われた場所でもあります。

 

城内は狩野派による障壁画によって豪華絢爛な空間となっており、徳川家の権勢を示す役割を果たしていました。

そんな権勢が終わりを告げるきっかけとなった大政奉還が行われた大広間は、今も見ることができます。

まさに徳川幕府のの始まりと終わりを見守っていた城であるといえます。

 

敷地内には大きな庭園もあります。


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二条駅から歩いてすぐの場所に、桓武天皇による平安京造営の際に付属庭園として築かれた「神泉苑」があります。

空海が雨乞いの祈祷を行い、見事雨をふらせたという伝説が残る場所です。


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【長野県 長野】 善光寺 川中島古戦場跡 松代象山地下壕 松代城 長國寺 

 

長野市といえば、まず思いつくのが「牛に引かれて善光寺参り」という言葉で知られる善光寺でしょう。

善光寺はこの地域一帯で長きに渡って信仰を集めました。

JR長野駅から歩いていける距離にあります。

 

おすすめは本堂の中で体験できる「お戒壇めぐり」です。

階段を降りると暗闇の回廊が続いていて、そこを壁伝いに歩いていくと鍵に触れることができます。

その鍵に触れると一度あの世へ行って戻ってくることができるという言い伝えがあり、出てきた時には生まれ変わっているのだそうです。

これがけっこうスリリングで、やりごたえがあります。


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かの有名な川中島の合戦の古戦場跡も市内にあり、今は公園になっています。

公園内には長野市立博物館があって、そこでも川中島の合戦について展示、解説がされています。

JR長野駅からバスが出ていますので、歩く必要はありません。

 

戦国最強といわれた武田信玄上杉謙信の両雄は、川中島で5度も戦闘を繰り返しました。

なかでも第四次川中島の合戦は激戦として知られ、武田軍の軍師山本勘助の戦略を見破った上杉謙信が裏をかいて武田軍の陣地に猛攻をかけました。

 

その時に謙信が馬上から信玄に斬りかかり、それを信玄が軍配で防いだといわれています。

謙信は三度しか剣を振るっていないにも関わらず、信玄の軍配には七ヶ所の刀の跡が残っていたといいます。

後世の創作ともいわれますが、戦国時代の語り草のひとつです。

公園内にある2人の一騎打ちの像は見応えがありました。

 

結果武田軍の救援が来たことで謙信は撤退し、引き分けで合戦は終わりました。


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長野市にある松代町へは、長野駅からバスで30分ほどで着きます。

僕の長野市の旅は、この松代がメインとなりました。

 

まず「松代象山地下壕」というアジア太平洋戦争末期に作られた地下壕に行きました。

軍部は本土決戦となった時には東京からここに大本営を移そうと計画しており、完成はしなかったものの建設作業は終戦の日まで行われました。
建設時には日本人および朝鮮人が強制労働させられたという歴史もあり、当時の軍部の横暴ぶりを象徴している場所であるといえます。

 

中にはヘルメットをしないと入れません。

大きな空間が長く続いていて、本格的に大本営を移そうと考えていたことが分かります。


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幕末にこの松代から思想家佐久間象山が生まれています。

彼の思想は吉田松陰勝海舟坂本龍馬といった志士たちに影響を与えました。

彼が説いたのは「和魂洋才」という考え方で、西洋の技術を取り入れながらも日本人の大事にしてきた思想は守るという、当時としては独自の思想でした。

 

地下壕の近くには彼を祀る神社と記念館があります。


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松代は江戸時代に真田家が治めた地で、松代城はその時に拠点としたお城です。

松代城はかつての名を海津城といい、武田信玄も戦で拠点としていました。


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松代城の近くには真田公園がありその中に、真田邸、さらには真田宝物館があります。


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最後に少し歩いて真田家の菩提寺である長國寺に行きました。

門をくぐって見上げれば、屋根の上に真田家の家紋である六文銭がそびえています。

 

六文は三途の川の渡し賃であり、真田家は死を覚悟して事に当たることを家紋で表していました。


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真田家で初めて松代を治めて発展させたのが真田信之で、かの真田幸村の兄です。

関ヶ原の戦いの際、父の真田昌幸は真田家生き残りのため自分と幸村は豊臣方、信之(当時は信幸)は徳川方につくという決断を下します。

どちらが勝ったとしても、いずれかは生き残って真田家を守ることができるという苦肉の決断でした。

 

結果として徳川家康が勝利し、昌幸と幸村は蟄居させられその間に昌幸は病死、幸村は大阪夏の陣で徳川軍相手に奮戦して戦死を遂げました。

父と弟を亡くしながらも、信之は真田家を守り抜くという自分の使命を果たしきりました。

真田家はその後も存続し、明治維新まで松代藩を治めます。

 

小国の領主である真田家が天下人徳川家康に立ち向かい翻弄した物語は胸のすく思いがします。

しかしそれと同時に、そんな徳川治世下で真田家を存続させた信之の苦労も想像に難くありません。

 

 

 

 

 

【群馬県 富岡 高崎】 富岡製糸場 少林山達磨寺 東善寺

世界遺産に登録されている富岡製糸場には、上信電鉄上州富岡駅から歩きで着きます。

建物は明治時代に使われていたものが現存しており、その歴史的価値は非常に高いです。

 

明治維新を迎えて財政、法律、軍隊などさまざまな分野で近代的な西洋諸国に追いつこうとしていた日本ですが、産業を近代化させることも急務でした。

これまでのように手作業ではなく、器械による大量生産を実現させなければなりませんでした。

その成果がこの富岡製糸場であり、当時世界最大規模の製糸工場だったここで作られた生糸は、海外で高い評価を得ました。

 

実際に中で操糸器が奥まで隙間なく並んである光景を見れますが、その規模の大きさを体感できます。

他にも当時の労働者の様子が分かる資料なども多く展示されており、資料館としての楽しみ方もできる場所です。


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その富岡市と隣接しているのが、高崎市です。

高崎市には、縁起だるま発祥の寺として有名な「少林山達磨寺」があります。

群馬八幡駅から徒歩か、あるいは高崎駅からバスで20分で着きます。

 

禅宗の中の黄檗宗の寺で、達磨大師の教えを受け継いでいます。

江戸時代に九代目東獄和尚が農民の副業として推奨したのが、だるま作りの始まりだそうです。

 

写真だけでも大量のだるまが置かれているのが分かるかと思います。

しかしそれでもごく一部に過ぎず、達磨堂の中では古今東西のあらゆる種類のだるまを見ることができます。


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境内には日本文化に造詣の深かった世界的建築家ブルーノ・タウトが暮らしていた洗心亭が残されています。


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高崎にはかつて明治維新に貢献した幕臣小栗上野介忠順という人物の終焉の地と墓があります。

幕臣明治維新に貢献したというと違和感があると思いますが、彼は勝海舟と並び幕臣でありながら日本を近代化へと進めた人物として評価されています。

 

しかし勝海舟が早くに幕府を見限っていたのに対し、先祖代々徳川家の恩を受けてきた小栗はあくまで徳川家を中心とした近代化を目指しました。

そこに彼の悲劇があったといえます。

 

小栗は戊辰戦争で徳川方が不利になった状態でも、新政府軍を破る策を考え徹底抗戦を訴えました。

しかし恭順を決め込んでいた徳川慶喜の意思と、薩長側と繋がりのあった勝海舟の交渉もあり徳川家は降伏するかたちとなりました。

ちなみに後に小栗の策を知った新政府軍の指導者が、「小栗の案が通っていたら薩長が負けていた」と言ったそうです。

 

そして小栗も徹底抗戦を諦め、自身は高崎の権田村でひっそりと暮らそうと考えていましたが、薩長側は反逆を企てているとして彼を捕らえこの地で首をはねました。

薩長からすればこれほどの才能を持った男が生き残っているのは恐怖でした。

 

また彼があまり知られていないのも、その後の歴史教育でその名が伏せられてきたからです。

薩長からすれば、旧体制であったはずの幕府側に明治維新に大きく貢献した人物がいたというのは不都合な真実でした。

 

彼の墓はその終焉の地の近くにあります。

「東善寺」というお寺で、高崎駅から50分ほどバスに乗らないといけません。


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司馬遼太郎は小栗のことを「明治の父」とまで称しました。

また彼が横須賀に造船所を作り、それが明治後も引き継がれたことから、日露戦争日本海軍を指揮した薩摩の東郷平八郎が「日本海海戦でロシアに勝てたのは小栗のおかげ」と言ったそうです。

 

他にも彼は西洋式軍隊の整備、欧米諸国との対等な交渉、日本初の株式会社の設立、後の廃藩置県に繋がる郡県制を構想するなど、時代を先取りした功績を残しました。

大隈重信は、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」とまで述べています。

 

東善寺では彼の生涯や功績が詳しく紹介されています。

またそこの展示に書かれてある文章からは、「なぜ大人しく隠居しようとしていた彼は、無実の罪で薩長に殺されなければならなかったのか」という理不尽への憤りが感じられます。

 

革命とは必ずしも新勢力が正しく、旧勢力が悪であるとは限らないし、そんな単純なものではないということが分かります。

それとともに小栗のような先見の明を持った人物が、滅ぼされる側の徳川恩顧の家系に生まれたというところに、運命の皮肉を感じずにいられません。

【徳島県 兵庫県 鳴門 淡路島】 大塚国際美術館 渦の道 おのころ島神社 高田屋嘉兵衛公園 

徳島県の鳴門市から橋を渡って淡路島の方まで行こうとすると、淡路島が目と鼻の先に見える位置に「大塚国際美術館」と「大鳴門橋遊歩道 渦の道」があります。

 

大塚国際美術館は、陶板を用いて古今東西のあらゆる名画を原寸大で再現していることで知られています。

まさに美術の教科書の中に迷い込んだかのようです。

特にミケランジェロが手掛けたシスティーナ礼拝堂の壁画の再現は圧巻でした。

 

日本最大級の常設展示スペースだそうで、全てを味わって見ているととんでもない時間がかかってしまいます。

なので少し速歩きになりながら見て回りました。

というのもこの後「渦の道」に最も渦が大きくなる時間に行くつもりだったので、それに合わせて見終える必要があったのです。

今度はしっかり時間を確保したうえでもう一度行こうと思っています。

 

世界的にもこのようなコンセプトの美術館は珍しいそうですが、所詮は複製であって本物ではないという方もいるかもしれません。

しかしこの美術館の取り組み、および展示品には深い価値があります。

 

絵画をはじめ文化財を保存し続けるのは困難が伴います。

事実、戦争や災害によって消失した美術品も多くあるのです。

それに対し、陶板名画は2000年以上にわたって色と形をそのままに残すので、未来に文化財を引き継ぐという意味でこの美術館は深い役割を果たしています。


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「渦の道」では事前にホームページで、その日の渦が最も大きい時間を調べられます。

橋の上の遊歩道を通って歩いていくと、世界三大潮流の1つである鳴門の渦潮を見下ろすことができます。

数え切れないほどの白くて激しい波が、現れてはぶつかって消えを繰り返します。


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「渦の道」を出て他の場所に行っても展望台があるので、いろいろな場所から鳴門の渦潮を楽しめます。

特にこの海でとれた鯛の海鮮丼を食べながら見るのが、最高の贅沢でした。


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さて場所は淡路島に移ります。

淡路島は日本神話の中で、イザナギイザナミが最初に生んだ土地とされています。

 

大きな朱色の鳥居が特徴的な「おのころ島神社」は、そんなイザナギイザナミを祀っています。

日本神話の息吹を感じられる場所です。


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もう1つ、淡路島でどうしても訪れたかったのが「高田屋嘉兵衛公園」です。

高田屋嘉兵衛とは淡路島出身の江戸時代の商人であり、船乗りとして日本各地を航海し、また幕府の命で北方の開拓を行いました。

 

彼の最大の功績は日本とロシアの衝突を防いだことです。

当時日本がロシア側の艦長であるゴローニンを捕縛したことから、日露関係が緊迫していました。

そんな中たまたま船で近くを通っていた嘉兵衛たちをロシアのリカルドが捕らえます。

嘉兵衛は日露関係の解消に乗り出そうと言葉の通じないリカルドと交渉を重ね、見事ゴローニン釈放による日露の和解を成し遂げました。

 

囚われの身でありながら自分から両国間の関係を改善してやろうという胆力、そしてそれを本当に成し遂げてしまうだけの人間的魅力に惹かれずにはいられません。

 

司馬遼太郎が「菜の花の沖」という小説でその高田屋嘉兵衛を描いています。

この小説は長いので全て読みきれないという人でも、嘉兵衛とリカルドの交渉のくだりだけでも読んでみてください。

異国の人間とは得体のしれない存在とされた時代に、誠心誠意、そしてときには情熱的にぶつかって交渉する嘉兵衛の人としてのあり方からは学ぶことが多いです。

 

この公園には嘉兵衛の墓、そして博物館があります。

墓は人目のつかないところにあり、彼の妻とともにひっそりと眠っています。


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博物館では実際の船の作業が再現されていたり、嘉兵衛ゆかりの品々も残されています。


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司馬遼太郎は、「人の偉さの尺度を、たとえば英知と良心と勇気ということにすると、江戸時代を通じてだれが一番偉かったか。私は、高田屋嘉兵衛だろうと思う。それも2番目が思いつかないくらいに」とまで述べています。

 

またこの博物館で別に司馬が嘉兵衛について書いている新聞記事を読んだのですが、その内容が探しても見つからないのでうろ覚えのまま記します。

 

嘉兵衛は死ぬ間際にロシア人とのやり取りを譫言で言っていたそうです。

彼にとってそれは人生で最も輝いていた青春のような時間だったのでしょう。

人間は権力や名誉やお金のためでなく、死ぬ間際に思い出されるそんな記憶のためにこそ生きるべきだ、というような内容だったと思います。

 

 

 

【福岡県 福岡 太宰府】 櫛田神社 福岡城 黒田家墓所 太宰府天満宮 九州国立博物館

博多の総鎮守である「お櫛田さん」こと櫛田神社は、JR博多駅から歩いていける範囲にあります。

 

境内には毎年大晦日に新しい年の恵方を示すように矢印が回転される「干支恵方盤」や、本殿地下から湧き出る霊泉で不老長寿のいのち水として信 仰されている「霊泉鶴の井戸」などがあります。


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また7月に開催される「博多祇園山笠」で用いられる飾り山笠が常時展示されています。


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他にも有名力士たちが力自慢に持ち上げた石を奉納した「力石」などがあります。

 

地元の人々から親しまれているのが分かるとともに、ユニークな神社でもあります。


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福岡城には、博多駅から地下鉄に乗り換えて大濠公園駅で降りるとすぐ着きます。

 

建物はあまり残っていませんが、石垣や堀は建築当時のまま残されており、かすかに名残を感じることができます。

また天守台跡からは福岡の街を見渡すこともできました。


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福岡城関ヶ原の戦い直後に、黒田如水(官兵衛)と息子の長政によって築かれました。

もともと今の大分県に領土を持っていた黒田家ですが、関ヶ原の戦いでの長政の活躍を評価した家康によってこの地が与えられました。

 

ちなみに関ヶ原で長政が活躍していた頃、父の如水は漁夫の利を得ようと九州で領土を拡大していました。

彼の狙いは動乱に紛れて天下をとることにあったといわれています。

 

実際に官兵衛と称していた頃から天才的軍略で豊臣秀吉の天下統一を支えてきた彼なら、関ヶ原の戦いが長引いて両軍が疲弊していればそれを成しえてもおかしくありませんでした。

しかし息子の活躍もあって関ヶ原の戦いは1日で終わり、如水の夢は潰えます。

 

この時に家康が長政の右手を取って褒めたと聞いた如水が、長政に向かって「その時お前の左手は何をしていた」と聞いたというエピソードは有名です。

つまりなぜその左手で家康を殺さなかったのかという意味で、その凄味のある一言に長政は絶句したといいます。

 

まるで如水が執念深く天下をとりたがっていたかの様に思わせるこのエピソードですが、おそらく後世の作り話か、そうでなければ如水なりのジョークだったことでしょう。

実際如水は家康の勝利を知るとすぐに軍事行動をやめていますし、その後は素直に家康に恭順しています。

その時に家康から領地の加増を提案されますが、断って後を長政に託して隠居しました。

 

隠居後の如水は家臣たちのことを口汚く罵るようになり、長政がこれを諫めに行くことがありました。

すると如水は「早くお前の時代が来ればいいと思わせるためにやっているのだ」と答えたといいます。

 

そんな隠居後の如水が暮らした屋敷跡も残されています。

ここで若かりし頃からの壮絶な天下取りの争いに想いを馳せながら、泰平の世へと移り変わった時世を満喫していたことでしょう。

そして自分の使命は全て成し得たかのように、1604年に世を去りました。


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黒田家の菩提寺である崇福寺には、如水、長政をはじめ歴代の墓があります。
しかし僕は時間が遅くて、目の前までしか行くことができませんでした。

 

黒田官兵衛こと如水という男は無欲な人物だったのか、それとも野心家だったのか、よく分からないところがあります。

家康による加増の提案を断っているかと思えば、チャンスと見るや天下を手中に収めようと動き出すというところに彼の性格の複雑さが見えます。

 

おそらく名誉や地位というものには興味がなかったため、小さな領土には目がくれなかったのだと思われます。

しかし天下という大きなものを前にすると、自分にどこまでのことができるかを試してみたいと血が騒ぎ、それこそが彼の野心の中身だったのでしょう。

 

彼が剃髪後に名乗った「如水」という名は、そんな性格をよく表しているように感じます。

人の一生は流れる水のように儚いもので、名誉や地位のような自分が死ねばなくなる虚しいものを追い求めるよりも、今この時に自分なりにおもしろいことができるかが大事だという、彼の考え方にふさわしい名前なのではないでしょうか


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福岡市を離れて太宰府市大宰府天満宮を訪れました。

受験シーズンに来てしまったためすごい人数でした。

 

合格祈願をするのもいいですが、境内には宝物殿や菅原道真についての展示がある「菅公歴史館」、さらにはここにも如水や黒田家ゆかりのものが見られるのでさまざまな歴史を学べます。

 

ここで祀られている菅原道真は「学問の神様」として有名ですが、民衆のための政治を行った人物でもありました。

しかし藤原時平の陰謀によって失脚させられ、京都を追われこの地で晩年を過ごしました。

 

道真の遺体を運んでいた牛が突然動かなくなり、それも道真の何らかの意志だと感じた彼の弟子が、その場所で彼を祀ろうとしたのが太宰府天満宮の始まりといわれています。


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太宰府天満宮と隣接しているのが、「九州国立博物館」です。

太宰府奈良時代の頃から、九州の軍事、外交、政治の中心地として栄えていました。

そのため日本とアジアとの重要な交流拠点となり、大陸からの交易品が太宰府に集まりました。

 

九州国立博物館では太宰府だけでなく、日本が長い歴史の中でどのように大陸の影響を受けてきたかということを学べる展示がされています。