鎌倉の大仏といえば、日本三大仏の1つとして知られています。
高徳院の本尊で、最初に建てられたのは鎌倉時代でその後倒壊して室町時代に今の姿となったといわれています。
電車で行くなら、江ノ電長谷駅で下車して歩けばすぐ着きます。
奈良の大仏のように遠くからしか拝めないわけではなく、間近まで近づいてその姿を見られるのが特徴的です。
倒壊するまでは、大仏殿が周りを囲んでいたようです。
鎌倉は武家政権発祥の地であり、ここから武士の世は始まったといっても過言ではありません。
それは今から800年も昔のことですが、その足跡は今も街のあらゆる場所で見ることができます。
まずは鎌倉幕府の精神的中心となって東国武士の信仰を集めた鶴岡八幡宮です。
ここは1180年に源頼朝が鎌倉に政権を築く際に、由比ヶ浜にあった源氏ゆかりの八幡宮を今の地に遷し祀ったのが始まりです。
JR鎌倉駅を降りると、目の前で商店街が賑わっています。
そこをまっすぐ進んで行くと、信号を挟んで向かい側に大きな鳥居が現れます。
境内には国宝館もあり、当時のことを学んだうえでお参りすることができます。
境内にはこの鶴岡八幡宮の儀式中に階段で暗殺された、三代将軍源実朝の首塚から移植された実朝桜が立っています。
ここは人々の精神的支えであるとともに、血なまぐさい抗争の中心地でもあったのです。
鎌倉駅から鶴岡八幡宮まで行くルートがもう1つあり、それが段葛を通るルートです。
段葛は参道である若宮大路の中央に盛土された参道で、鶴岡八幡宮の中心からまっすぐ駅の方へ伸びています。
もともとは頼朝と北条政子の息子頼家が生まれる際に、安産祈願のために造られた道です。
今は鶴岡八幡宮に参拝する歩行者のメインロードとして機能しています。
鶴岡八幡宮のすぐ近くに、畠山重忠の邸宅跡の石碑が立っていました。
畠山重忠は古くからの頼朝の家臣で、東国武士の鑑といわれた人物でしたが、頼朝亡き後の勢力抗争のなかで北条時政によって倒されます。
鶴岡八幡宮は鎌倉観光では定番かもしれませんが、もう少し奥まで歩いて「法華堂跡」まで行く人となるとかなり少なくなります。
ここには、源頼朝や大河ドラマで話題となった北条義時の墓があります。
途中頼朝の邸宅跡であり、政子死後まで鎌倉の政治が執り行われていた大蔵幕府跡や、頼朝が信仰していた白旗神社などがあります。
武士の世を最初に築いたのは平清盛ら平氏一族といっていいですが、彼らは京都の朝廷内で力を持ったことで従来の貴族社会の枠からはみ出ことができませんでした。
そんな平氏の失敗を見ていたからこそ、頼朝は京都とは距離をおいたこの鎌倉に独自の政権を築き、700年の武士の世の礎を築いたのです。
そんな鎌倉も朝廷の統治からすれば目障りとされ、頼朝死後に後鳥羽上皇が鎌倉打倒のために承久の乱を起こします。
それを迎え撃って、鎌倉を朝廷も手出しできないほどの盤石な政権へと育て上げたのが北条義時です。
鎌倉幕府による武家政治の始まりは、この2人によって成し遂げられたといえるでしょう。
頼朝も義時も共通していえることは、徹底したリアリストであったことです。
目的のため必要であれば情け容赦なく敵を粛清しました。
だからこそこの2人にはどこか陰惨なイメージがつきまといますが、武士の世のための必要悪だったと見ることもできます。
ここには北条氏が宝治合戦で滅ぼした三浦一族も供養されています。
一族はここに立てこもり全員自害したそうです。
ここには毛利季光、大江広元、島津忠久の墓もあります。
大江広元は戦国時代の毛利氏の先祖とされ、頼朝、義時の下で仕えた人物です。
武士ではないため爽やかなイメージがなく、あまりとりあげられませんが、頼朝や義時と同じリアリストであり、非情な彼らの補佐を淡々とこなして幕府に貢献した人物です。
宝戒寺は北条氏執権屋敷跡があるこの地に、北条氏を滅ぼした足利尊氏がその霊を弔うために建立しました。
そこからすぐ近くには、北条氏最後の執権高時が自害した東勝寺跡や腹切やぐらが残されています。
同じ街の中に、北条氏発展のきっかけとなった地もあれば、少し歩けば滅亡の地もあるという、時空を跨いだような不思議な気持ちにさせられます。
諸行無常ということを考えさせられました。
建長寺は執権北条時頼によって建てられた臨済宗の禅寺であり、鎌倉時代の禅宗文化発展のきっかけとなりました。
建長寺とともに鎌倉禅宗寺院として知られるのが円覚寺です。
元寇を迎え撃った北条時宗が、その戦没者を供養するために建てました。
北条氏は権力を握る過程で様々な有力御家人を滅ぼし、執権の地位を手に入れました。
ここまでは北条氏側の史跡を主に見てきましたが、鎌倉では滅ぼされた側の足跡もたどることができます。
妙本寺は、比企能員の屋敷があった地に建てられた比企氏の菩提寺です。
比企能員は北条時政と並ぶ有力御家人でしたが、頼朝死後に北条時政、義時親子に殺害され、ここにあった屋敷も北条の軍に攻撃されて比企氏は滅ぼされました。
和田義盛は頼朝挙兵以来からの重臣でしたが、鎌倉の軍事権を握っていたためそれを奪おうと考えた義時に言いがかりをつけられ、滅ぼされます。
和田合戦といわれるこの戦いで和田軍が陣を敷いたのが、今では海水浴場として知られる由比ヶ浜です。
この由比ヶ浜は鶴岡八幡宮辺りから歩いて行ける距離にあるので、戦闘は小範囲で行われていたことが分かります。
由比ヶ浜へ行く途中にある小さな公園に、ぽつんと佇むように和田義盛と一族の墓があります。
安養院には頼朝の妻、北条政子の墓があります。
彼女も頼朝や弟の義時と同じく、手段を選ばないリアリストだったということもできます。
しかし政子は息子の二代将軍頼家を結果として殺害することとなり、また別の息子の実朝も権力抗争の中で殺害されました。
それだけでなく、自分の夫、父親、弟がライバルを惨殺していく様子をただ平然と見守ることができたのかといわれると分かりません。
心中穏やかでないものがあったかもしれません。
政子は頼朝と結婚する道を選んだからこそ絶大な権力を得るに至りましたが、それは伊豆の小さな豪族の一人娘として生涯を終えたなら味わうことのない苦しみだったでしょう。
鎌倉には勝者の足跡だけでなく、敗者の足跡もあります。
多くの人間の無念や悲しみを土台としてつくられた街であり、政権であったといえます。
それは遥か昔の物語ですが、今でもその声が聞こえてくるかのような、そんな寂寞の感が漂っていました。