【岐阜県 関ヶ原】 関ヶ原の戦い 大谷吉継 

岐阜と滋賀のほぼ県境に位置する関ヶ原では、かつて天下分け目の合戦が行われました。

石田三成率いる西軍を徳川家康率いる東軍が破ったことで、事実上家康が天下をとることになったのです。

 

日本中のあらゆる武将が参加した戦いですから、その陣地跡が多く残っています。

僕が行った時にはまだありませんでしたが、古戦場記念館も今はできたそうです。

JR関ヶ原駅で降りれば、徒歩でもそれらを回ることができます。

 

まず石田三成やその軍師島左近、そして徳川家康の陣地跡を見て回りました。


f:id:dtred:20240519235329j:image


f:id:dtred:20240519235400j:image


f:id:dtred:20240520000956j:image


f:id:dtred:20240519235759j:image


f:id:dtred:20240519235838j:image

 

関ヶ原の戦いは、西軍の小早川秀秋が裏切ったことで勝敗が決しました。

彼はどちらにつくか決めかねたまま松尾山に陣を敷いていましたが、戦局が五分であるため決断をくだせませんでした。

そこに家康の陣地から鉄砲での威嚇を受けます。

家康からの脅しによって秀秋は裏切りを決意し、西軍へと襲い掛かかったのです。

 

この時の秀秋の陣地跡も残されていました。

まさにここでの決断で天下分け目の合戦は決着がつきました。


f:id:dtred:20240520001445j:image

 

この秀秋の裏切りを事前に予想して松尾山の下に陣を構えていたのが、大谷吉継です。

彼は当初家康と戦うことには反対していましたが、三成との友情から西軍として参戦しました。

そして裏切って攻めかかってきた秀秋の軍勢に対し、わずかな手勢で立ち向かいました。

しかし奮戦虚しく、吉継は首をとられます。

陣地跡の近くには彼の墓がありました。


f:id:dtred:20240519235905j:image


f:id:dtred:20240519235930j:image


f:id:dtred:20240519235953j:image

 

僕が行ったのはごく一部で、関ヶ原の戦いにはそれぞれのドラマがあり、関連する史跡巡りももっと時間をかけてすることができます。

しかし僕が実際に戦場跡に行ってみて最も心をうたれたのは、大谷吉継という武将です。

 

家康が天下をとることや、小早川秀秋の裏切りまで予想できる賢さを持ちながらも、友情に殉じた生き様を彼の陣地跡や墓で感じました。

 





【神奈川県 鎌倉】 源頼朝 北条義時 北条政子

鎌倉の大仏といえば、日本三大仏の1つとして知られています。

高徳院の本尊で、最初に建てられたのは鎌倉時代でその後倒壊して室町時代に今の姿となったといわれています。

 

電車で行くなら、江ノ電長谷駅で下車して歩けばすぐ着きます。

 

奈良の大仏のように遠くからしか拝めないわけではなく、間近まで近づいてその姿を見られるのが特徴的です。

倒壊するまでは、大仏殿が周りを囲んでいたようです。


f:id:dtred:20240519205238j:image


f:id:dtred:20240519205319j:image

 

鎌倉は武家政権発祥の地であり、ここから武士の世は始まったといっても過言ではありません。

それは今から800年も昔のことですが、その足跡は今も街のあらゆる場所で見ることができます。

 

まずは鎌倉幕府の精神的中心となって東国武士の信仰を集めた鶴岡八幡宮です。

ここは1180年に源頼朝が鎌倉に政権を築く際に、由比ヶ浜にあった源氏ゆかりの八幡宮を今の地に遷し祀ったのが始まりです。

 

JR鎌倉駅を降りると、目の前で商店街が賑わっています。

そこをまっすぐ進んで行くと、信号を挟んで向かい側に大きな鳥居が現れます。

境内には国宝館もあり、当時のことを学んだうえでお参りすることができます。


f:id:dtred:20240519205811j:image


f:id:dtred:20240519205421j:image


f:id:dtred:20240519205500j:image


f:id:dtred:20240519205640j:image

 

境内にはこの鶴岡八幡宮の儀式中に階段で暗殺された、三代将軍源実朝首塚から移植された実朝桜が立っています。

ここは人々の精神的支えであるとともに、血なまぐさい抗争の中心地でもあったのです。


f:id:dtred:20240519205924j:image

 

鎌倉駅から鶴岡八幡宮まで行くルートがもう1つあり、それが段葛を通るルートです。

段葛は参道である若宮大路の中央に盛土された参道で、鶴岡八幡宮の中心からまっすぐ駅の方へ伸びています。

 

もともとは頼朝と北条政子の息子頼家が生まれる際に、安産祈願のために造られた道です。

今は鶴岡八幡宮に参拝する歩行者のメインロードとして機能しています。


f:id:dtred:20240519212840j:image

 

鶴岡八幡宮のすぐ近くに、畠山重忠の邸宅跡の石碑が立っていました。

畠山重忠は古くからの頼朝の家臣で、東国武士の鑑といわれた人物でしたが、頼朝亡き後の勢力抗争のなかで北条時政によって倒されます。


f:id:dtred:20240519212802j:image

 

鶴岡八幡宮は鎌倉観光では定番かもしれませんが、もう少し奥まで歩いて「法華堂跡」まで行く人となるとかなり少なくなります。

ここには、源頼朝大河ドラマで話題となった北条義時の墓があります。

 

途中頼朝の邸宅跡であり、政子死後まで鎌倉の政治が執り行われていた大蔵幕府跡や、頼朝が信仰していた白旗神社などがあります。


f:id:dtred:20240519213813j:image


f:id:dtred:20240519213857j:image


f:id:dtred:20240519213923j:image


f:id:dtred:20240519213952j:image


f:id:dtred:20240519214027j:image

 

武士の世を最初に築いたのは平清盛平氏一族といっていいですが、彼らは京都の朝廷内で力を持ったことで従来の貴族社会の枠からはみ出ことができませんでした。

そんな平氏の失敗を見ていたからこそ、頼朝は京都とは距離をおいたこの鎌倉に独自の政権を築き、700年の武士の世の礎を築いたのです。

 

そんな鎌倉も朝廷の統治からすれば目障りとされ、頼朝死後に後鳥羽上皇が鎌倉打倒のために承久の乱を起こします。

それを迎え撃って、鎌倉を朝廷も手出しできないほどの盤石な政権へと育て上げたのが北条義時です。

鎌倉幕府による武家政治の始まりは、この2人によって成し遂げられたといえるでしょう。

 

頼朝も義時も共通していえることは、徹底したリアリストであったことです。

目的のため必要であれば情け容赦なく敵を粛清しました。

だからこそこの2人にはどこか陰惨なイメージがつきまといますが、武士の世のための必要悪だったと見ることもできます。


f:id:dtred:20240519214120j:image


f:id:dtred:20240519214201j:image


f:id:dtred:20240519214227j:image

 

ここには北条氏が宝治合戦で滅ぼした三浦一族も供養されています。

一族はここに立てこもり全員自害したそうです。


f:id:dtred:20240519214253j:image

 

ここには毛利季光大江広元島津忠久の墓もあります。

大江広元は戦国時代の毛利氏の先祖とされ、頼朝、義時の下で仕えた人物です。

武士ではないため爽やかなイメージがなく、あまりとりあげられませんが、頼朝や義時と同じリアリストであり、非情な彼らの補佐を淡々とこなして幕府に貢献した人物です。


f:id:dtred:20240519214324j:image


f:id:dtred:20240519214352j:image


f:id:dtred:20240519214416j:image


f:id:dtred:20240519214453j:image

 

宝戒寺は北条氏執権屋敷跡があるこの地に、北条氏を滅ぼした足利尊氏がその霊を弔うために建立しました。


f:id:dtred:20240519221319j:image


f:id:dtred:20240519222214j:image


f:id:dtred:20240519222241j:image


f:id:dtred:20240519222313j:image

 

そこからすぐ近くには、北条氏最後の執権高時が自害した東勝寺跡や腹切やぐらが残されています。

同じ街の中に、北条氏発展のきっかけとなった地もあれば、少し歩けば滅亡の地もあるという、時空を跨いだような不思議な気持ちにさせられます。

諸行無常ということを考えさせられました。


f:id:dtred:20240519222419j:image


f:id:dtred:20240519222558j:image


f:id:dtred:20240519222629j:image

 

建長寺は執権北条時頼によって建てられた臨済宗の禅寺であり、鎌倉時代禅宗文化発展のきっかけとなりました。


f:id:dtred:20240519223505j:image


f:id:dtred:20240519223606j:image


f:id:dtred:20240519223711j:image


f:id:dtred:20240519223738j:image


f:id:dtred:20240519223805j:image


f:id:dtred:20240519223835j:image


f:id:dtred:20240519223900j:image


f:id:dtred:20240519223938j:image


f:id:dtred:20240519223959j:image


f:id:dtred:20240519224027j:image

 

建長寺とともに鎌倉禅宗寺院として知られるのが円覚寺です。

元寇を迎え撃った北条時宗が、その戦没者を供養するために建てました。


f:id:dtred:20240519224616j:image


f:id:dtred:20240519224641j:image


f:id:dtred:20240519224754j:image


f:id:dtred:20240519224820j:image


f:id:dtred:20240519224845j:image


f:id:dtred:20240519224909j:image


f:id:dtred:20240519224954j:image


f:id:dtred:20240519225046j:image


f:id:dtred:20240519225111j:image


f:id:dtred:20240519225214j:image


f:id:dtred:20240519225328j:image


f:id:dtred:20240519225258j:image


f:id:dtred:20240519225420j:image


f:id:dtred:20240519225450j:image

 

北条氏は権力を握る過程で様々な有力御家人を滅ぼし、執権の地位を手に入れました。

ここまでは北条氏側の史跡を主に見てきましたが、鎌倉では滅ぼされた側の足跡もたどることができます。

 

妙本寺は、比企能員の屋敷があった地に建てられた比企氏の菩提寺です。

比企能員北条時政と並ぶ有力御家人でしたが、頼朝死後に北条時政、義時親子に殺害され、ここにあった屋敷も北条の軍に攻撃されて比企氏は滅ぼされました。


f:id:dtred:20240519225722j:image


f:id:dtred:20240519225758j:image


f:id:dtred:20240519225822j:image


f:id:dtred:20240519230032j:image


f:id:dtred:20240519230608j:image

 

和田義盛は頼朝挙兵以来からの重臣でしたが、鎌倉の軍事権を握っていたためそれを奪おうと考えた義時に言いがかりをつけられ、滅ぼされます。

和田合戦といわれるこの戦いで和田軍が陣を敷いたのが、今では海水浴場として知られる由比ヶ浜です。

 

この由比ヶ浜鶴岡八幡宮辺りから歩いて行ける距離にあるので、戦闘は小範囲で行われていたことが分かります。

由比ヶ浜へ行く途中にある小さな公園に、ぽつんと佇むように和田義盛と一族の墓があります。


f:id:dtred:20240519230107j:image


f:id:dtred:20240519230135j:image


f:id:dtred:20240519230156j:image

 

安養院には頼朝の妻、北条政子の墓があります。

彼女も頼朝や弟の義時と同じく、手段を選ばないリアリストだったということもできます。

 

しかし政子は息子の二代将軍頼家を結果として殺害することとなり、また別の息子の実朝も権力抗争の中で殺害されました。

それだけでなく、自分の夫、父親、弟がライバルを惨殺していく様子をただ平然と見守ることができたのかといわれると分かりません。

心中穏やかでないものがあったかもしれません。

 

政子は頼朝と結婚する道を選んだからこそ絶大な権力を得るに至りましたが、それは伊豆の小さな豪族の一人娘として生涯を終えたなら味わうことのない苦しみだったでしょう。


f:id:dtred:20240519231115j:image


f:id:dtred:20240519231145j:image


f:id:dtred:20240519231255j:image


f:id:dtred:20240519231322j:image

 

鎌倉には勝者の足跡だけでなく、敗者の足跡もあります。

多くの人間の無念や悲しみを土台としてつくられた街であり、政権であったといえます。

それは遥か昔の物語ですが、今でもその声が聞こえてくるかのような、そんな寂寞の感が漂っていました。

 

 

 

 

 

【滋賀県 彦根 多賀町】 彦根城 佐和山城 河内の風穴 多賀大社

彦根城跡は、JR彦根駅から徒歩で行ける範囲にあります。

ただし中の敷地は広く、小高い山の上にあることから石垣やいくつかの櫓を横目に歩いて行かないと天守閣にはたどり着けません。

 

それらの櫓の中には重要文化財のものもあり、天守閣も国宝に指定されています。

彦根城天守閣は現存12天守の1つであり、また他の櫓や屋敷、堀なども当時の姿をとどめており、ここまで保存状態が良好な城は全国的に見ても珍しいそうです。

 

彦根城1622年に徳川方の有力大名の1つであった井伊氏によって築かれ、以降明治維新まで城主は井伊氏が務めました。

建築が着工されたのは1604年で、当時豊臣氏を牽制する必要のあった徳川家康による命令でした。

そのため幕府の威光を示すための美的要素と、高い軍事的要素を併せ持つ名城ができあがったのです。

 

f:id:dtred:20240518225501j:image


f:id:dtred:20240518231555j:image


f:id:dtred:20240518225550j:image

 

徳川時代以前にこの地を治める拠点となっていたのが佐和山城であり、石田三成が城主となった際は5層の天守閣が築かれましたが、今はあとも形もありません。

関ヶ原の戦い後、彦根城を拠点としようとした井伊家や家康の意図により、その機能は失われて城も破壊されてしまったのです。

 

しかし天守があった頃は、「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」といわれたほど、その城としての価値は高く評価されていました。

島の左近とは三成の軍師ですが、彼と佐和山城だけは、三成が持つにはもったいないといわれていたのです。

 

佐和山城彦根駅から徒歩圏内にあり、佐和山の麓から30分ほど歩けば、本丸のあった山頂にたどり着けます。

今となっては、そこに残るのは「佐和山城跡」の石碑のみで、当時の権勢を偲ぶには難しいかもしれません。


f:id:dtred:20240518225650j:image


f:id:dtred:20240518225711j:image 

 

当時の姿をきれいに残している彦根城と、その築城が理由で当時の姿をとどめられなかった佐和山城が、同じ彦根駅の徒歩圏内にあるのは、どこか歴史の非情な運命を感じます。

 

彦根を離れて少し東へ進むと、犬上郡多賀町という地域があります。

ここに「河内の風穴」といわれる洞窟があります。

街の中心からはかなり離れていますので、車で行くことをおすすめします。

 

鍾乳洞の観光地は日本にいくつもありますが、ここはいい意味で観光地化されていないところが魅力的でした。

人が通りやすいようにという人為的な部分があまりなく、自然のまま残されているため旅行というより冒険をしている気分になれます。

 

まず洞窟へ向かうまでの道から、山奥に迷い込んだかのような風景です。

 

f:id:dtred:20240518230232j:image

 

洞窟の入口は高さ1メートルくらいしかありません。

なのでしゃがみながら気を付けてなんとか中へ入ります。


f:id:dtred:20240518230334j:image

 

中へ入れば、広くて冷気の漂う空間となっています。

奥の方に狭くて小さい階段が1つあって、それを登るとまた違う空間に行くことができます。

ただこの階段は一方通行ですし、気をつけて足を踏み外さないようにしないといけません。


f:id:dtred:20240518230422j:image


f:id:dtred:20240518230449j:image


f:id:dtred:20240518230525j:image

 

多賀町といえば多賀大社が有名で、古来から「お多賀さん」の名称で親しまれ、全国から信仰を集めています。

祀っているのは、日本の国土を生んだといわれるいざなぎといざなみです。

豊臣秀吉も、ここに米一万石を事納して母親の病気平癒を祈ったといわれています。


f:id:dtred:20240518230602j:image

 

 

【岡山県 岡山 倉敷】 岡山城 岡山後楽園 倉敷美観地区 

岡山城岡山駅から少し離れた位置にありますが、市内を走る路面電車ですぐ着きます。

 

歩くと堀を挟んで向かい側に、黒くて質朴な天守閣が姿を現します。

そのため別名烏城ともよばれています。

 

この城の天守閣を築き、城下町を整備したのは豊臣秀吉の有力な家臣だった宇喜多秀家です。

もともと前身となる城を父の直家が築いていました。

 

しかし宇喜多秀家関ヶ原の戦いで破れて八丈島流罪となり、その後岡山城主となったのが小早川秀秋でした。

小早川秀秋関ヶ原の戦いで徳川方に寝返ったことで勝敗を左右した人物です。

そのような人物が秀家の跡に続いたのは皮肉な結果ですが、その秀秋も城主となって2年足らずでこの世を去ります。

 

それ以降歴代城主を務めたのは、姫路城を築いたことでも知られる池田家です。


f:id:dtred:20240515214714j:image


f:id:dtred:20240515214742j:image

 

その池田家6代目城主で、日本三名園の1つ岡山後楽園を造営したのが池田綱政です。

岡山後楽園は岡山城と川を隔てて隣接しており、月見橋という細い橋を渡るだけで入れます。

 

人工的な庭で巨大な自然を表現するという、日本古来からの造園技法が使われていますが、ここのそれはスケールが違います。

見渡す限りの池の中や周囲に、島や建物を散りばめることでここだけの世界観が完成されています。


f:id:dtred:20240515214816j:image


f:id:dtred:20240515214850j:image


f:id:dtred:20240515214918j:image

f:id:dtred:20240515214951j:image


f:id:dtred:20240515215018j:image

 

岡山市を離れて隣の倉敷市に移動し、ここでは「倉敷美観地区」を歩きました。

 

倉敷川に沿うように、柳並木や白壁の屋敷が続いています。

江戸時代には倉敷川で物資を運んでおり、ここは物資の集積地でした。

その頃からこの景観は変わらず残っています。

その頃と同じような舟に乗りながら町並みを眺めるという体験もできるそうです。


f:id:dtred:20240515215539j:image


f:id:dtred:20240515215619j:image


f:id:dtred:20240515215703j:image

 

古風な景色にも癒やされますが、洋風の建物や、またジーンズ発祥の地だけあっておしゃれなショップ、カフェも多くあります。

歴史を残したうえで現代的センスにも溢れていることで、魅力的な観光地となっています。

 

【長崎県 長崎】 長崎原爆資料館 亀山社中記念館

1945年8月9日に長崎に落とされた原子爆弾ですが、その落下中心地は今は平和公園になっています。

JRの最寄り駅は浦上駅ですが、長崎市には路面電車も通っているので、それを使って行くこともできます。

 

そこでは残された被爆当時の地層を見学できたり、さまざまな記念碑が置かれています。

特に有名な平和祈念像は、長崎市民の運動により原爆10周年記念日に建立されたものです。

 

この公園内にある長崎原爆資料館では、原爆の恐怖と被害を視覚的に学べるようになっています。

 

原爆に限らず戦争によりもたらされる苦しみというものは、それを経験した人間にしか理解できません。

事実を知ったり、映像を見たりしても当事者と同じ状況を追体験するには限界があります。

しかしそれでも、その時の映像や証言を後世に伝えるということを諦めると、いつまでも人間は同じ過ちを繰り返してしまいます。

だからこそここで見られるものはすべて、今後残し続けなければなりません。


f:id:dtred:20240514205400j:image


f:id:dtred:20240514213459j:image


f:id:dtred:20240514213521j:image


f:id:dtred:20240514213549j:image


f:id:dtred:20240514213614j:image


f:id:dtred:20240514213650j:image


f:id:dtred:20240514213715j:image

 

路面電車を使って次に向かったのが、坂本龍馬がこの地で作った日本初の株式会社といわれる亀山社中の跡です。

 

道中に日本初の撮影局跡が残されていました。

坂本龍馬高杉晋作もここで写真を撮ったそうです。


f:id:dtred:20240514213903j:image


f:id:dtred:20240514213837j:image

 

亀山社中の跡は記念館になっていて、関連する展示がされています。

そのすぐ前にあるのが、龍馬のぶーつ像です。

新しいもの好きの龍馬は日本で初めてブーツを履いたといわれており、ここには足をいれることもできます。


f:id:dtred:20240514213940j:image


f:id:dtred:20240514214005j:image

 

当初龍馬は、勝海舟の海軍操練所で航海術などを学んできましたが、そこが幕府の命により閉鎖となります。

行き先をなくした龍馬は、仲間とともに商社兼私設海軍である亀山社中を築きます。

そして武器や物資の運搬を行い、さらに長州藩と幕府の戦争では長州側として参戦しました。

 

亀山社中の一番の功績は、薩長同盟の成立に貢献したことです。

当時犬猿の仲であった薩摩と長州ですが、薩摩から長州に武器を、長州から薩摩に米を提供することで関係を深めて同盟を結ぶに至ります。

それを提案し、実際に武器と米を運搬したのが龍馬率いる亀山社中でした。


f:id:dtred:20240514214114j:image

 

やがて亀山社中海援隊と名を変え、諸藩から独立した活動を行い続けました。

龍馬ゆかりの地といえば他にも高知、京都などがありますが、船を操って日本を変えていった彼にとって、長崎には自分の夢を叶える拠点としての特別な想いがあったことでしょう。

【福島県 会津若松】 鶴ヶ城 白虎隊

会津若松のシンボルといえば、やはり鶴ヶ城でしょう。

JR会津若松駅から、現在博物館になっている天守閣と城跡公園までのバスが出ています。

 

鶴ヶ城戊辰戦争最大の激戦といわれる会津戦争によって落城したことで知られる城です。

幕末に会津藩松平容保京都守護職という役目を与えられ、幕府側として活躍しました。

それにより薩摩、長州といった新政府側からは恨みをかっており、徳川慶喜が降伏して江戸城が明け渡された後でも会津藩は標的とされました。


f:id:dtred:20240513211525j:image

 

さまざまな逸話を残した会津戦争ですが、最も有名なのは、少年たちが自害を余儀なくされた白虎隊の悲劇です。

白虎隊の墓地がある飯盛山にも、会津若松駅からバスで行くことができます。

 

墓地へ向かう階段の下に、「白虎隊記念館」があります。

ここで白虎隊や会津藩にまつわることを学んでから、白虎隊十九士の墓へ向かいました。


f:id:dtred:20240513211549j:image

 

彼らはここから鶴ヶ城が燃えているのを確認して敗北を悟り、この地で自害しました。

しかし実際には、その時はまだ鶴ヶ城は落城していませんでした。


f:id:dtred:20240513211615j:image


f:id:dtred:20240513211641j:image

 

この白虎隊の悲劇を伝えたのは、自刃した隊士の中で唯一蘇生した飯沼貞雄という人物です。

彼の墓も他の隊士たちと同じこの地にあります。


f:id:dtred:20240513211702j:image


f:id:dtred:20240513211727j:image


f:id:dtred:20240513211751j:image


f:id:dtred:20240513211901j:image


f:id:dtred:20240513211928j:image

 

悲劇が語られがちな会津戦争ですが、1つ痛快なエピソードがあります。

戦争中に会津藩山川浩率いる部隊は、包囲されている鶴ヶ城に入城する必要がありました。

その際に会津伝統の彼岸獅子に変装して、笛と太鼓の音を鳴らしながら堂々と入場したといいます。

あまりのことに新政府軍も手を出せなかったのです。

 

その彼岸獅子の舞を、運良く「白虎隊記念館」の中で見ることができました。

今でも会津若松では、彼岸入りの頃に街中を彼岸獅子で歩いて回る行事をしているようで、たまたまそのタイミングに合うことができたのです。

会津戦争時のそのエピソードも相まってか、会津の人たちの力強さを見た気がしました。

 

江戸時代の会津藩といえば、当時どの藩にも負けないほど厳しい武士道に基づいた教育が行われたことで知られています。

「ならぬことはならぬものです」で知られる什の掟は、理屈を超えたあるべき行動規範を説いており、会津藩士たちはそれを精神の拠り所にしていました。

 

彼らからすれば主君である徳川家から政権を奪い、東北まで進軍してきた新政府軍に頭を下げることは恥ずべきことでした。

だからこそ徹底抗戦を行い、血みどろの戦争をやってのけました。

白虎隊の行動の根幹にも、そのような会津藩の教育があったのです。

 

一方新政府軍としても、政権を確立するうえで旧幕府側は完全に制圧しておく必要がありました。

だから会津藩を見逃すわけにはいかなかったのです。

 

白虎隊をはじめ会津藩の悲劇を考えると、会津藩士たちの強烈なまでの自己規範に驚愕するしかありません。

それと同時に、すでに徳川家が降伏している段階にあってこの戦争を起こす意義はあったのかとも考えさせられます。

【広島県 呉】 音戸の瀬戸 大和ミュージアム 入船山記念館 歴史の見える丘

呉市にある音戸の瀬戸とは、呉の本土側と倉橋島の間の海峡のことで、元々ここは陸続きでした。

それを平清盛が、日宋貿易で宋船が通れるようにするために切り開いて今の地形になりました。

当時宋からの品物は福岡に運ばれていましたが、清盛は宋船を瀬戸内海に通して神戸まで来れるようにと考えていたのです。

独裁者というイメージの強い清盛ですが、日宋貿易を推し進めて貨幣経済を日本にもたらしたのは彼の功績です。

 

この時の伝説で、工事をその日の間に終わらせようとした清盛が、扇を使って沈みかけていた太陽を招き返したというものがあります。

そしてその時に清盛が立っていた足跡と、杖をついたつぼみのあとまでが岩に残されています。

この岩の上には、誰でも立つこともできます。


f:id:dtred:20240512232713j:image


f:id:dtred:20240512232804j:image


f:id:dtred:20240512232834j:image


f:id:dtred:20240512232900j:image

 

ここは呉駅から距離があるので、車かバスでないと行くのは難しいかと思います。

僕はバスで行ったのでバス停からしばらく歩きましたが、その途中で明治時代の砲台の兵舎も見ることができました。


f:id:dtred:20240512233036j:image

 

音戸大橋を渡って倉橋島の方まで行くと、「伝清盛塚」もあります。


f:id:dtred:20240512233119j:image


f:id:dtred:20240512233202j:image

 

呉は軍港として栄えた街で、今でも船の並ぶ港の景色からその名残を感じることができます。

 

戦艦大和もこの呉で生まれ、呉駅からすぐの「大和ミュージアム」でその歴史が紹介されています。

戦艦大和が10分の1サイズで緻密な部分まで再現されていて、さらに戦艦大和がどういう経緯で悲劇的な最期を迎えたかがよく分かります。

 

巨大な予算をかけて造られた戦艦大和は沖縄での特攻作戦のために出撃させられ、米軍の攻撃によって沈没しました。

そんな悲劇を伝えるためにこそ、このような博物館には深い意義があるといえます。


f:id:dtred:20240512233343j:image


f:id:dtred:20240512233433j:image


f:id:dtred:20240512233521j:image


f:id:dtred:20240512233559j:image


f:id:dtred:20240512233626j:image

 

明治になって海軍は呉の測量を行い、三方を山に囲まれて防御に優れ、また艦船の入出港がしやすいことからここに海軍の鎮守府を設置しました。

それまで小さな港町であった呉は、そこから軍港都市として発展していきます。

当時の呉鎮守府司令長官官舎は、今は「入船山記念館」として整備されています。

 

呉駅から歩いてそこへ向かう途中に、戦時中に海軍と市民の交流の場であった青山クラブや、市民が生活する地域と海軍の地域の境にあった眼鏡橋の説明がありました。

眼鏡橋は工事により、今は地中に埋まっています。


f:id:dtred:20240512233742j:image


f:id:dtred:20240512233853j:image


f:id:dtred:20240512233946j:image


f:id:dtred:20240512234010j:image

 

入船山記念館の中には「旧呉海軍工廠塔時計」や「旧高烏砲台火薬庫」など、当時をしのばせるものが多く残ります。


f:id:dtred:20240512234028j:image


f:id:dtred:20240512234056j:image


f:id:dtred:20240512234124j:image


f:id:dtred:20240512234159j:image


f:id:dtred:20240512234228j:image


f:id:dtred:20240512234243j:image


f:id:dtred:20240512234304j:image


f:id:dtred:20240512234332j:image


f:id:dtred:20240512234345j:image

 

「旧呉鎮守府司令長官官舎」は、老朽化していたものを調査と解体修理が行われ、再建時の姿に戻されました。

内部の見学も可能です。


f:id:dtred:20240512234403j:image


f:id:dtred:20240512234417j:image


f:id:dtred:20240512234500j:image


f:id:dtred:20240512234518j:image

 

他にも呉と海軍の関係を深く知れる「呉市歴史民俗資料館」や、入船山記念館からは少し離れますが「呉海軍病院跡」なども見ることができます。


f:id:dtred:20240512234539j:image

 


f:id:dtred:20240512234550j:image

 

入船山記念館を出て、少しだけ南に歩けば「歴史の見える丘」に着きます。

ここは旧呉海軍工廠造船部、呉鎮守府、呉軍港全体が一望できることからその名前がつけられました。

丘の上には、「呉海軍工廠記念塔」や「噫戦艦大和之塔」などが立っています。


f:id:dtred:20240512234638j:image


f:id:dtred:20240512235012j:image


f:id:dtred:20240512234719j:image


f:id:dtred:20240512234736j:image


f:id:dtred:20240512234750j:image

 

そして丘の方から歩道橋を渡れば、造船の現場を一望することができます。

それは現在の造船の現場でもあれば、戦時中の造船の現場でもあるのです。


f:id:dtred:20240512235142j:image


f:id:dtred:20240512235216j:image

 

今のジャパンマリンユナイテッド㈱呉事業所大屋根は、かつての旧呉海軍工廠造船部造船船渠大屋根を使っています。

つまりここで戦艦大和などは誕生したのです。


f:id:dtred:20240512235230j:image

 

呉の造船技術は今も残っており、それはより発展して船以外の製造にまで活かされるようになっています。

かつて呉から戦艦大和をはじめ多くの悲劇を生む艦船が生まれ出港していきました。

しかし今では物流を支えるための船や、人の暮らしに役立つためのものを作る技術へと変わっています。

今後呉で培われてきた技術が、そういう方向で活かされ続けることを祈るばかりです。