呉市にある音戸の瀬戸とは、呉の本土側と倉橋島の間の海峡のことで、元々ここは陸続きでした。
それを平清盛が、日宋貿易で宋船が通れるようにするために切り開いて今の地形になりました。
当時宋からの品物は福岡に運ばれていましたが、清盛は宋船を瀬戸内海に通して神戸まで来れるようにと考えていたのです。
独裁者というイメージの強い清盛ですが、日宋貿易を推し進めて貨幣経済を日本にもたらしたのは彼の功績です。
この時の伝説で、工事をその日の間に終わらせようとした清盛が、扇を使って沈みかけていた太陽を招き返したというものがあります。
そしてその時に清盛が立っていた足跡と、杖をついたつぼみのあとまでが岩に残されています。
この岩の上には、誰でも立つこともできます。
ここは呉駅から距離があるので、車かバスでないと行くのは難しいかと思います。
僕はバスで行ったのでバス停からしばらく歩きましたが、その途中で明治時代の砲台の兵舎も見ることができました。
音戸大橋を渡って倉橋島の方まで行くと、「伝清盛塚」もあります。
呉は軍港として栄えた街で、今でも船の並ぶ港の景色からその名残を感じることができます。
戦艦大和もこの呉で生まれ、呉駅からすぐの「大和ミュージアム」でその歴史が紹介されています。
戦艦大和が10分の1サイズで緻密な部分まで再現されていて、さらに戦艦大和がどういう経緯で悲劇的な最期を迎えたかがよく分かります。
巨大な予算をかけて造られた戦艦大和は沖縄での特攻作戦のために出撃させられ、米軍の攻撃によって沈没しました。
そんな悲劇を伝えるためにこそ、このような博物館には深い意義があるといえます。
明治になって海軍は呉の測量を行い、三方を山に囲まれて防御に優れ、また艦船の入出港がしやすいことからここに海軍の鎮守府を設置しました。
それまで小さな港町であった呉は、そこから軍港都市として発展していきます。
当時の呉鎮守府司令長官官舎は、今は「入船山記念館」として整備されています。
呉駅から歩いてそこへ向かう途中に、戦時中に海軍と市民の交流の場であった青山クラブや、市民が生活する地域と海軍の地域の境にあった眼鏡橋の説明がありました。
眼鏡橋は工事により、今は地中に埋まっています。
入船山記念館の中には「旧呉海軍工廠塔時計」や「旧高烏砲台火薬庫」など、当時をしのばせるものが多く残ります。
「旧呉鎮守府司令長官官舎」は、老朽化していたものを調査と解体修理が行われ、再建時の姿に戻されました。
内部の見学も可能です。
他にも呉と海軍の関係を深く知れる「呉市歴史民俗資料館」や、入船山記念館からは少し離れますが「呉海軍病院跡」なども見ることができます。
入船山記念館を出て、少しだけ南に歩けば「歴史の見える丘」に着きます。
ここは旧呉海軍工廠造船部、呉鎮守府、呉軍港全体が一望できることからその名前がつけられました。
丘の上には、「呉海軍工廠記念塔」や「噫戦艦大和之塔」などが立っています。
そして丘の方から歩道橋を渡れば、造船の現場を一望することができます。
それは現在の造船の現場でもあれば、戦時中の造船の現場でもあるのです。
今のジャパンマリンユナイテッド㈱呉事業所大屋根は、かつての旧呉海軍工廠造船部造船船渠大屋根を使っています。
つまりここで戦艦大和などは誕生したのです。
呉の造船技術は今も残っており、それはより発展して船以外の製造にまで活かされるようになっています。
かつて呉から戦艦大和をはじめ多くの悲劇を生む艦船が生まれ出港していきました。
しかし今では物流を支えるための船や、人の暮らしに役立つためのものを作る技術へと変わっています。
今後呉で培われてきた技術が、そういう方向で活かされ続けることを祈るばかりです。