敦賀はいわずとしれた港町で、JR敦賀駅から少し北の方の敦賀港周辺には観光地が集まっています。
またもし旅行に行くなら「日本海さかな街」などに行って、新鮮な魚料理を食べることをおすすめします。
日本海の魚はどれも絶品ですが、特にこの辺りは鯖が有名です。
しかし今回は食べ物ではなく、敦賀の観光名所、史跡をご紹介します。
まず「金ヶ崎城跡」ですが、ここは日本史上で二度大きな戦闘に巻き込まれた城です。
1つは南北朝時代、南朝側の尊良親王と新田義顕が北朝側の猛攻を受け自害を遂げた「金ヶ崎の戦い」です。
もう1つは戦国時代、福井の朝倉義景を攻撃していた織田信長がこの城に入ったことに始まります。
当時信長と同盟を結んでいた滋賀の浅井長政が突如反旗を翻し、信長は浅井と朝倉に挟まれて絶体絶命となりました。
信長はこの地で撤退を決意しますが、朝倉の攻撃から自軍を守る殿をする人間が必要で、それをかってでたのが後の豊臣秀吉や明智光秀、徳川家康でした。
後の世から見れば錚々たる顔ぶれが殿を務めたわけで、その甲斐もあって信長は奇跡の生還を遂げました。
殿の役割を果たした彼らも評価されるべきですが、浅井の裏切りを知った途端に瞬時に撤退を決意して実行した信長の俊敏性、行動力にこそ後の天下人の素質を感じます。
そこから少し西の方に行くと日本三大松原の1つである「気比の松原」や、日本三大木造大鳥居の1つである鳥居があり、地元の人々から親しまれている「氣比神宮」といった名所もあります。
金ヶ崎城跡の近くにあるのが、「人道の港敦賀ムゼウム」という資料館です。
第二次世界大戦時にリトアニアの外交官だった杉原千畝が迫害されていたユダヤ人に対し、日本に逃げるためのビザを発給したということはよく知られています。
そしてそのビザを携えてシベリア鉄道に乗り、日本にたどり着いたユダヤ人が最初に降り立った港が敦賀だったのです。
ここではその時に敦賀の人々が、ユダヤ人たちを温かく迎え入れたという事実が紹介されています。
例えばユダヤ人たちを不憫に思った少年が、りんごを無償で提供したというようなエピソードもあるそうです。
またそれよりも前の1920年代にも、ロシア革命の動乱で家族を失ったポーランド孤児たちを敦賀の人々は温かく受け入れました。
まさに人道の港とよばれる所以です。
軍国主義に染められて大陸への侵略を進めていた頃の日本人というのは排他的で独善的なイメージが強く、実際誇りを持って語れるような史実はほぼ見当たりません。
そんな時代にユダヤ人を逃がそうとした杉原千畝や、彼らを温かく迎え入れた敦賀の人々がいたという事実は、暗闇の中にさす一縷の光のような輝きがあります。
敦賀は古くから大陸との交流拠点として栄え、明治以降も国際港としての役割を果たしてきました。
そのような外に開かれた歴史を持った街の人々だったからこそ、他民族への優しさというものをあの時代にも持っていたのかもしれません。