JR会津若松駅から、現在博物館になっている天守閣と城跡公園までのバスが出ています。
鶴ヶ城は戊辰戦争最大の激戦といわれる会津戦争によって落城したことで知られる城です。
幕末に会津藩主松平容保は京都守護職という役目を与えられ、幕府側として活躍しました。
それにより薩摩、長州といった新政府側からは恨みをかっており、徳川慶喜が降伏して江戸城が明け渡された後でも会津藩は標的とされました。
さまざまな逸話を残した会津戦争ですが、最も有名なのは、少年たちが自害を余儀なくされた白虎隊の悲劇です。
白虎隊の墓地がある飯盛山にも、会津若松駅からバスで行くことができます。
墓地へ向かう階段の下に、「白虎隊記念館」があります。
ここで白虎隊や会津藩にまつわることを学んでから、白虎隊十九士の墓へ向かいました。
彼らはここから鶴ヶ城が燃えているのを確認して敗北を悟り、この地で自害しました。
しかし実際には、その時はまだ鶴ヶ城は落城していませんでした。
この白虎隊の悲劇を伝えたのは、自刃した隊士の中で唯一蘇生した飯沼貞雄という人物です。
彼の墓も他の隊士たちと同じこの地にあります。
悲劇が語られがちな会津戦争ですが、1つ痛快なエピソードがあります。
戦争中に会津藩士山川浩率いる部隊は、包囲されている鶴ヶ城に入城する必要がありました。
その際に会津伝統の彼岸獅子に変装して、笛と太鼓の音を鳴らしながら堂々と入場したといいます。
あまりのことに新政府軍も手を出せなかったのです。
その彼岸獅子の舞を、運良く「白虎隊記念館」の中で見ることができました。
今でも会津若松では、彼岸入りの頃に街中を彼岸獅子で歩いて回る行事をしているようで、たまたまそのタイミングに合うことができたのです。
会津戦争時のそのエピソードも相まってか、会津の人たちの力強さを見た気がしました。
江戸時代の会津藩といえば、当時どの藩にも負けないほど厳しい武士道に基づいた教育が行われたことで知られています。
「ならぬことはならぬものです」で知られる什の掟は、理屈を超えたあるべき行動規範を説いており、会津藩士たちはそれを精神の拠り所にしていました。
彼らからすれば主君である徳川家から政権を奪い、東北まで進軍してきた新政府軍に頭を下げることは恥ずべきことでした。
だからこそ徹底抗戦を行い、血みどろの戦争をやってのけました。
白虎隊の行動の根幹にも、そのような会津藩の教育があったのです。
一方新政府軍としても、政権を確立するうえで旧幕府側は完全に制圧しておく必要がありました。
だから会津藩を見逃すわけにはいかなかったのです。
白虎隊をはじめ会津藩の悲劇を考えると、会津藩士たちの強烈なまでの自己規範に驚愕するしかありません。
それと同時に、すでに徳川家が降伏している段階にあってこの戦争を起こす意義はあったのかとも考えさせられます。