【新潟県 長岡】 河井継之助 山本五十六

長岡ではゆかりの地をめぐりたいと思っていた人物が2人いました。

それが河井継之助山本五十六です。

 

河井継之助は司馬遼󠄁太郎の「峠」で知られる人物で、何年か前に映画化もされました。
彼は戊辰戦争の際に長岡藩を一藩武装独立させたうえで、薩長旧幕府軍の和平を目指したものの薩長側に拒絶されます。
そして徳川家と関係が深いという藩の立場から、薩長相手に戦争を繰り広げることになります。

 

彼自身は開明的な思想を持っていて、武士の時代が終わることまで予見していたほどの人物でした。

しかし長岡藩士という立場から逆賊の側になり敗北を喫し、その際に死を遂げます。

自分の保身や思想よりも立場や義理を優先しなければならず、そこに命すらかけなければならないという、強烈な武士道に殉ずることとなったのです。

まさに「最後のサムライ」というにふさわしい英傑です。 

 

長岡駅からすぐのところに「河井継之助記念館」があります。
ここで彼直筆の「民は国の本、吏は民の雇」という言葉や、薩長に対して旧幕府軍との和平を訴える彼の文言を見ることができます。
記念館の隣には「河井継之助邸跡」も残されています。

残念ながらこれらは写真が残っていないので貼れません。

 

もう一人が山本五十六で、彼は日独伊三国同盟アメリカとの戦争に反対しつつも実現できず、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を実行しました。
真珠湾を攻撃してアメリカと早期に和平を結び、戦争を終わらせるのが彼の考えでした。
しかしその通りにはいかず、戦争が長期化して日本が劣勢になる中で彼は戦死することになります。

 

河井継之助記念館」の近くに山本の生家が再現されてあり、公園として整備されています。
山本五十六記念館」もそのすぐ近くにあって、中は撮影禁止でしたが、彼が搭乗していた撃墜機の翼が大きいスペースを使って展示されています。


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「如是蔵博物館」も山本五十六に関する展示がされていて、中の方が詳しく説明してくださいました。

ここも長岡駅の近くで、今回紹介した場所は全て徒歩で簡単に回りきれる位置にあります。


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この2人は戦争を止めようとしたが実現できずに結局自分が指揮することになり、悲劇的な最期を迎えたというところまで奇妙なまでに一致しています。

運命というべきか人知を超えた何かを感じずにいられません。

 

長岡藩主牧野家の家訓に「常在戦場」という言葉があり、それが長岡藩士たちの精神の拠り所となった考えでした。

「常に戦場にいるつもりで真剣に物事に取り組め」という意味ですが、この代々受け継がれてきた自己規範が河井継之助山本五十六をそのような行動に至らしめたといえるでしょう。