【長野県 長野】 善光寺 川中島古戦場跡 松代象山地下壕 松代城 長國寺 

 

長野市といえば、まず思いつくのが「牛に引かれて善光寺参り」という言葉で知られる善光寺でしょう。

善光寺はこの地域一帯で長きに渡って信仰を集めました。

JR長野駅から歩いていける距離にあります。

 

おすすめは本堂の中で体験できる「お戒壇めぐり」です。

階段を降りると暗闇の回廊が続いていて、そこを壁伝いに歩いていくと鍵に触れることができます。

その鍵に触れると一度あの世へ行って戻ってくることができるという言い伝えがあり、出てきた時には生まれ変わっているのだそうです。

これがけっこうスリリングで、やりごたえがあります。


f:id:dtred:20240613221132j:image

 

かの有名な川中島の合戦の古戦場跡も市内にあり、今は公園になっています。

公園内には長野市立博物館があって、そこでも川中島の合戦について展示、解説がされています。

JR長野駅からバスが出ていますので、歩く必要はありません。

 

戦国最強といわれた武田信玄上杉謙信の両雄は、川中島で5度も戦闘を繰り返しました。

なかでも第四次川中島の合戦は激戦として知られ、武田軍の軍師山本勘助の戦略を見破った上杉謙信が裏をかいて武田軍の陣地に猛攻をかけました。

 

その時に謙信が馬上から信玄に斬りかかり、それを信玄が軍配で防いだといわれています。

謙信は三度しか剣を振るっていないにも関わらず、信玄の軍配には七ヶ所の刀の跡が残っていたといいます。

後世の創作ともいわれますが、戦国時代の語り草のひとつです。

公園内にある2人の一騎打ちの像は見応えがありました。

 

結果武田軍の救援が来たことで謙信は撤退し、引き分けで合戦は終わりました。


f:id:dtred:20240613221154j:image

 

f:id:dtred:20240613221220j:image


f:id:dtred:20240613221242j:image


f:id:dtred:20240613221301j:image


f:id:dtred:20240613221327j:image


f:id:dtred:20240613221350j:image

 

長野市にある松代町へは、長野駅からバスで30分ほどで着きます。

僕の長野市の旅は、この松代がメインとなりました。

 

まず「松代象山地下壕」というアジア太平洋戦争末期に作られた地下壕に行きました。

軍部は本土決戦となった時には東京からここに大本営を移そうと計画しており、完成はしなかったものの建設作業は終戦の日まで行われました。
建設時には日本人および朝鮮人が強制労働させられたという歴史もあり、当時の軍部の横暴ぶりを象徴している場所であるといえます。

 

中にはヘルメットをしないと入れません。

大きな空間が長く続いていて、本格的に大本営を移そうと考えていたことが分かります。


f:id:dtred:20240613221438j:image


f:id:dtred:20240613221510j:image


f:id:dtred:20240613221536j:image


f:id:dtred:20240613221555j:image


f:id:dtred:20240613221613j:image

 

幕末にこの松代から思想家佐久間象山が生まれています。

彼の思想は吉田松陰勝海舟坂本龍馬といった志士たちに影響を与えました。

彼が説いたのは「和魂洋才」という考え方で、西洋の技術を取り入れながらも日本人の大事にしてきた思想は守るという、当時としては独自の思想でした。

 

地下壕の近くには彼を祀る神社と記念館があります。


f:id:dtred:20240613221636j:image


f:id:dtred:20240613221650j:image

 

松代は江戸時代に真田家が治めた地で、松代城はその時に拠点としたお城です。

松代城はかつての名を海津城といい、武田信玄も戦で拠点としていました。


f:id:dtred:20240613221714j:image


f:id:dtred:20240613221731j:image

 

松代城の近くには真田公園がありその中に、真田邸、さらには真田宝物館があります。


f:id:dtred:20240613221807j:image


f:id:dtred:20240613221824j:image

 

最後に少し歩いて真田家の菩提寺である長國寺に行きました。

門をくぐって見上げれば、屋根の上に真田家の家紋である六文銭がそびえています。

 

六文は三途の川の渡し賃であり、真田家は死を覚悟して事に当たることを家紋で表していました。


f:id:dtred:20240613221851j:image


f:id:dtred:20240613221905j:image

 

真田家で初めて松代を治めて発展させたのが真田信之で、かの真田幸村の兄です。

関ヶ原の戦いの際、父の真田昌幸は真田家生き残りのため自分と幸村は豊臣方、信之(当時は信幸)は徳川方につくという決断を下します。

どちらが勝ったとしても、いずれかは生き残って真田家を守ることができるという苦肉の決断でした。

 

結果として徳川家康が勝利し、昌幸と幸村は蟄居させられその間に昌幸は病死、幸村は大阪夏の陣で徳川軍相手に奮戦して戦死を遂げました。

父と弟を亡くしながらも、信之は真田家を守り抜くという自分の使命を果たしきりました。

真田家はその後も存続し、明治維新まで松代藩を治めます。

 

小国の領主である真田家が天下人徳川家康に立ち向かい翻弄した物語は胸のすく思いがします。

しかしそれと同時に、そんな徳川治世下で真田家を存続させた信之の苦労も想像に難くありません。