【岩手県 平泉】 奥州藤原氏 源義経

平泉はかつての奥州藤原氏が本拠とした地であり、その繁栄の跡が今でも残っています。

奥州藤原氏はこの地で平安時代に栄華を誇りましたが、やがて勢力拡大を狙った源頼朝によって滅ぼされます。

源義経と弁慶の最期の地としても知られています。


JR平泉駅でレンタサイクルを借り、観光地が駅の近くに集中しているので一気に回ることができました。

最初この地で亡くなった弁慶の墓で手を合わせてから、中尊寺に向かいました。


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中尊寺奥州藤原氏初代の清衡が築いた寺院であり、世界遺産に登録されている平泉を代表する観光地です。

特に金色堂は唯一800年前から残っている仏堂で、金を使った豪華絢爛な見た目で有名です。
マルコ・ポーロが日本を黄金の国ジパングとして西洋に紹介したのは、この金色堂についての噂から派生したという説もあります。
写真撮影禁止だったので、残念ながら内部の写真を撮ることはできませんでした。


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中尊寺とともに奥州藤原氏の造営した寺院として知られるのが毛越寺です。

伽藍遺構は残っていない部分も多いですが、大泉が池を中心に景観を表現した浄土庭園はそのまま残されており、当時の浄土思想を色濃く表しています。

池を用いて景観を表現する作庭技法は、他の寺でもよく見られますが、ここまで規模の大きいものは見たことがありません。


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源義経と弁慶については、その最期の地が少し坂道を登ったところに残されています。
義経は兄の頼朝の追手から逃れるため、旧知の仲であった奥州藤原氏を頼りました。
しかし頼朝の怒りをかうことを恐れた藤原泰衡義経の館を襲撃し、義経と家臣の弁慶はこの地で最期を遂げました。

 

高館義経堂がその館の跡であり義経が祀られています。
小高いところにあり、眼下には大きな川が流れていて景勝地としても知られています。

館の跡といってもそこには小さな祠と供養塔がぽつんと佇んでいるだけで、平家を滅ぼした一代の英雄を祀るにはあまりにもあっけないという感じを受けなくもありません。


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最後に訪れたのが柳之御所遺跡の公園です。

かつての奥州藤原氏の政務の場で、当時の暮らしを伝える展示も見ることができます。


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かの松尾芭蕉がこの平泉で詠んだのが、「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な一句です。

奥州藤原氏は約800年も前に滅んだため、その足跡を完全なかたちで見ることはできません。

しかし800年後の現在にここに訪れても、義経をはじめとした人々の無念や想いを少しでも垣間見ることができます。