安土はかつて日本一の繁栄を誇った街ですが、今ではその名残は微かにしか残されていません。
天下の覇者となった織田信長はこの地に安土城を築き、その権勢を示しました。
ちなみに信長は天守閣ではなく「天主閣」という言葉を使いました。
しかし本能寺の変の直後に原因不明の放火により焼失し、今では石垣と石段のみが残されています。
その豪華絢爛な造りで知られる安土城の天主閣を今の世に見ることはできませんが、山を登れば天主台跡があり、その大きさを計り知ることができます。
また近くにある「安土城天主 信長の館」では、天主閣の5、6階が原寸大で再現されています。
混沌とした戦国乱世を鎮めるためには誰もが服従する権力が必要であり、それを家臣や諸大名に示す必要がありました。
まさに安土城の天主閣は、そんな信長の権力を象徴したものだったといえます。
やがて信長から豊臣秀吉の時代に変わると、安土城内の建物や石垣は八幡山の方へと移され城下町そのものが移転されました。
城主となったのは秀吉の甥であった秀次です。
ロープウェイを登るとその八幡山城跡にたどり着きます。
その麓にある「日牟禮八幡宮」は、古くからの祭りが行われる由緒ある神社です。
八幡山城跡には当時の石垣や石段が残り、城主であった秀次の菩提を弔うために建てられた瑞龍寺もあります。
秀次は秀吉から関白の位を譲れられますが、秀吉から我が子秀頼を脅かす存在と見られ謀反の疑いをかけられて腹を切りました。
若くしてその悲劇の生涯を終えた秀次ですが、彼が楽市楽座等の政策で城下町の商業を発展させたことが後の近江商人発展の礎になりました。
その功績は後世に残る偉大なものだったといえます。
また山上からは広大な田園風景の先に琵琶湖を望むことができます。
近江八幡といえば八幡堀の景色で有名ですが、これは秀次が築城時に琵琶湖に繋がる運河として築いたものです。
1595年に八幡城は廃城となりこの地は城下町としての機能を失いますが、その水運を利用することで商業の街として発展し続けました。
その時に活躍したのがいわゆる近江商人であり、彼らはその地を拠点として全国へと販路を広げました。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」という近江商人の「三方よし」という考え方は特に有名で、現代の経営でも参考にされています。
街には近江商人の暮らした跡が残されており、当時の外観を今でも眺めることができます。
また「近江八幡市立郷土資料館」や「旧西川家住宅」では建物の内部を見ることもできます。
「かわらミュージアム」では江戸時代から300年続く「八幡瓦」の技術を感じることができます。
琵琶湖に近いこの地域の地質は瓦作りに適しており、また水運業が発展していたことで重い瓦の運搬がしやすい環境になっていました。
さらに神社仏閣や商人の屋敷が多くあったことから瓦は需要が高く、そのような理由から瓦産業が発展しました。
信長の安土での商業政策がかたちを変えて八幡城下で受け継がれ、江戸時代の近江商人の活躍まで結びついたその歴史を肌で感じることができます。
クラブハリエのバウムクーヘンといえば県外からも人が集まるほど有名です。
ジブリの世界に迷い込んだかのようなその外観と、中に入れば大量のお土産ともに工場をガラス越しに見ることもできます。
場所は八幡堀の辺りからすぐ近くです。