その後廃藩置県まで城としての役割を果たしました。
江戸初期の大名庭園である「西之丸庭園」は、内堀の上を木造の廊下が繋いで情緒あふれる景色となっています。
また公園の敷地内にある「わかやま歴史館」では、和歌山城の歴史や和歌山ゆかりの人物について学ぶことができます。
高野山へ向かうには、JRから南海高野線に乗り換えて極楽橋駅まで行かなければなりません。
その途中九度山駅で降りると、真田昌幸とその息子幸村ゆかりの地を巡ることができます。
昌幸と幸村の親子は関ヶ原の戦いで石田三成側についたことで徳川家康の処罰を受けることとなり、この九度山の地で蟄居を命じられます。
そして昌幸はこの地で病死しますが、幸村は大坂冬の陣が起きると九度山から脱出して大坂城に入城して、再び家康に立ち向かうこととなります。
その時に幸村が大坂に向かうために使ったとされる抜け穴が残されていました。
「善名称院」(真田庵)は2人が蟄居し、昌幸が亡くなった場所です。
小国の領主ながらその並外れた頭脳で大名たちを翻弄した昌幸は、これまで徳川軍を二度も打ち破っていました。
しかし再び家康に戦いを挑むことなくこの世を去ることになります。
そしてその無念は息子の幸村に受け継がれ、彼は大阪夏の陣で家康を自害の寸前まで追い詰めました。
真田昌幸、幸村親子ほど家康を苦しめた武将はいなかったでしょう。
小国の領主である真田一族が、天下人徳川家康に挑み翻弄した物語は痛快であり、今でも日本人に愛されています。
極楽橋駅からケーブルカーに乗ると、高野山の山上にたどり着きます。
「奥之院」と呼ばれるエリアには数々の大名や武将をはじめとした墓が並び、その参道は2キロにも及びます。
樹齢数百年の杉木立が並ぶ中で織田信長、上杉謙信といった人々の墓を拝むことができる、日本でもここしかない聖地です。
「日本の総菩提寺」とも呼ばれているそうです。
その最後に「御廟橋」があって、その先では空海が入定されているとされます。
ここから先は聖域であるため橋の前で服装を正し、礼拝してから渡るのが参拝の作法です。
また写真撮影も禁止となります。
橋を渡った先にある「弘法大師御廟」では、今でも空海が肉体をとどめているという信仰があります。
日本の歴史上、弘法大師空海ほど多くの伝承を残して人々の信仰を集めている人物はいないでしょう。
それは日本全国に空海ゆかりの地があることから分かりますが、この御廟はその最たるものといえます。
まるで山の上に一つの街があるかのようなスケールです。
空海がこの地から自分の密教の思想を体現して広めようとしていたことが分かります。