【福岡県 福岡 太宰府】 櫛田神社 福岡城 黒田家墓所 太宰府天満宮 九州国立博物館

博多の総鎮守である「お櫛田さん」こと櫛田神社は、JR博多駅から歩いていける範囲にあります。

 

境内には毎年大晦日に新しい年の恵方を示すように矢印が回転される「干支恵方盤」や、本殿地下から湧き出る霊泉で不老長寿のいのち水として信 仰されている「霊泉鶴の井戸」などがあります。


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また7月に開催される「博多祇園山笠」で用いられる飾り山笠が常時展示されています。


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他にも有名力士たちが力自慢に持ち上げた石を奉納した「力石」などがあります。

 

地元の人々から親しまれているのが分かるとともに、ユニークな神社でもあります。


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福岡城には、博多駅から地下鉄に乗り換えて大濠公園駅で降りるとすぐ着きます。

 

建物はあまり残っていませんが、石垣や堀は建築当時のまま残されており、かすかに名残を感じることができます。

また天守台跡からは福岡の街を見渡すこともできました。


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福岡城関ヶ原の戦い直後に、黒田如水(官兵衛)と息子の長政によって築かれました。

もともと今の大分県に領土を持っていた黒田家ですが、関ヶ原の戦いでの長政の活躍を評価した家康によってこの地が与えられました。

 

ちなみに関ヶ原で長政が活躍していた頃、父の如水は漁夫の利を得ようと九州で領土を拡大していました。

彼の狙いは動乱に紛れて天下をとることにあったといわれています。

 

実際に官兵衛と称していた頃から天才的軍略で豊臣秀吉の天下統一を支えてきた彼なら、関ヶ原の戦いが長引いて両軍が疲弊していればそれを成しえてもおかしくありませんでした。

しかし息子の活躍もあって関ヶ原の戦いは1日で終わり、如水の夢は潰えます。

 

この時に家康が長政の右手を取って褒めたと聞いた如水が、長政に向かって「その時お前の左手は何をしていた」と聞いたというエピソードは有名です。

つまりなぜその左手で家康を殺さなかったのかという意味で、その凄味のある一言に長政は絶句したといいます。

 

まるで如水が執念深く天下をとりたがっていたかの様に思わせるこのエピソードですが、おそらく後世の作り話か、そうでなければ如水なりのジョークだったことでしょう。

実際如水は家康の勝利を知るとすぐに軍事行動をやめていますし、その後は素直に家康に恭順しています。

その時に家康から領地の加増を提案されますが、断って後を長政に託して隠居しました。

 

隠居後の如水は家臣たちのことを口汚く罵るようになり、長政がこれを諫めに行くことがありました。

すると如水は「早くお前の時代が来ればいいと思わせるためにやっているのだ」と答えたといいます。

 

そんな隠居後の如水が暮らした屋敷跡も残されています。

ここで若かりし頃からの壮絶な天下取りの争いに想いを馳せながら、泰平の世へと移り変わった時世を満喫していたことでしょう。

そして自分の使命は全て成し得たかのように、1604年に世を去りました。


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黒田家の菩提寺である崇福寺には、如水、長政をはじめ歴代の墓があります。
しかし僕は時間が遅くて、目の前までしか行くことができませんでした。

 

黒田官兵衛こと如水という男は無欲な人物だったのか、それとも野心家だったのか、よく分からないところがあります。

家康による加増の提案を断っているかと思えば、チャンスと見るや天下を手中に収めようと動き出すというところに彼の性格の複雑さが見えます。

 

おそらく名誉や地位というものには興味がなかったため、小さな領土には目がくれなかったのだと思われます。

しかし天下という大きなものを前にすると、自分にどこまでのことができるかを試してみたいと血が騒ぎ、それこそが彼の野心の中身だったのでしょう。

 

彼が剃髪後に名乗った「如水」という名は、そんな性格をよく表しているように感じます。

人の一生は流れる水のように儚いもので、名誉や地位のような自分が死ねばなくなる虚しいものを追い求めるよりも、今この時に自分なりにおもしろいことができるかが大事だという、彼の考え方にふさわしい名前なのではないでしょうか


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福岡市を離れて太宰府市大宰府天満宮を訪れました。

受験シーズンに来てしまったためすごい人数でした。

 

合格祈願をするのもいいですが、境内には宝物殿や菅原道真についての展示がある「菅公歴史館」、さらにはここにも如水や黒田家ゆかりのものが見られるのでさまざまな歴史を学べます。

 

ここで祀られている菅原道真は「学問の神様」として有名ですが、民衆のための政治を行った人物でもありました。

しかし藤原時平の陰謀によって失脚させられ、京都を追われこの地で晩年を過ごしました。

 

道真の遺体を運んでいた牛が突然動かなくなり、それも道真の何らかの意志だと感じた彼の弟子が、その場所で彼を祀ろうとしたのが太宰府天満宮の始まりといわれています。


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太宰府天満宮と隣接しているのが、「九州国立博物館」です。

太宰府奈良時代の頃から、九州の軍事、外交、政治の中心地として栄えていました。

そのため日本とアジアとの重要な交流拠点となり、大陸からの交易品が太宰府に集まりました。

 

九州国立博物館では太宰府だけでなく、日本が長い歴史の中でどのように大陸の影響を受けてきたかということを学べる展示がされています。